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源倫子(みなもとのりんし)は、藤原道長の正妻。 父は左大臣源雅信。 母は藤原穆子。 964年(康保元年)、土御門邸で誕生。 大河ドラマ「光る君へ」では倫子(ともこ)という名で登場予定。 |
宇多天皇 |
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987年(永延元年)、藤原道長と結婚して鷹司殿と呼ばれるようになる。 ただ、父の雅信は一条天皇の妃にしよう考えていたらしい。 しかし、母の穆子が「年齢的に不釣合い」として反対したのだという。 当時、倫子は24歳、道長は22歳、一条天皇は8歳。 |
藤原道長と源倫子~倫子の母藤原穆子は道長の才能を見抜いていた!~ |
倫子が生まれた土御門邸(土御門第)は、源雅信の邸宅。 雅信は、一条天皇を即位させ摂政として権勢をふるっていた藤原兼家を牽制できる唯一の人物だった。 兼家は道長の父。 倫子と道長の結婚は、兼家と雅信の緊張緩和につながったのだという。 雅信の死後、土御門邸は道長が継承している。 |
法成寺は、土御門邸の東側に藤原道長が創建した寺院。 法成寺の西北には、倫子の発願により建立された西北院があった。 |
988年(永延2年)、彰子を出産。 この頃、道長は源高明の娘・明子とも結婚している。 992年(正暦3年)には長男・頼通、994年(正暦5年)には次女・妍子(のちの三条天皇中宮)、996年(長徳2年)には教通を産んでいる。 999年(長保元年)、長女の彰子が12歳で一条天皇の女御として入内。 道長の姉・詮子の推挙があったらしい。 翌年、彰子は皇后となる。 ただ、彰子が入内した時、一条天皇には、藤原道隆(道長の兄)の娘・定子が入内していたため、定子は皇后宮、彰子は中宮と呼ばれるようになる。 彰子が入内した年には威子(のちの後一条天皇中宮)を、 1007(寛弘4年)には嬉子(のちの東宮敦良親王妃、後冷泉天皇母)を産んだ。 男子も摂政・大臣となり、天皇の外祖母として従一位・准三宮という臣下女性最高の栄誉を受けたが・・・ 1025年(万寿2年)、嬉子が薨去。 1027年(万寿4年)、妍子が崩御、同年、道長も薨去。 1036年(長元9年)には威子が崩御。 夫や娘たちに先立たれた倫子は、1039年(長暦3年)に出家して清浄法と号した。 1053年(天喜元年)6月1日、薨去(90歳)。 仁和寺に葬られた。 |
仁和寺は、倫子の曾祖父にあたる宇多天皇・祖父の敦実親王ゆかりの寺院。 父の源雅信も仁和寺に葬られている。 |
赤染衛門は源雅信邸に出仕し、倫子と娘の彰子に仕えた女流歌人。 夫大江匡衡との仲が良く、紫式部の日記には、彰子や道長が「匡衡衛門」と呼んでいたことが記されている。 息子の挙周の出世にも熱心で、倫子に贈った和歌が道長の感動を呼び、挙周は和泉守に任官されたのだとか。 |
娘の彰子の出産が間近となった1008年(寛弘5年)9月9日、倫子は彰子に仕えていた紫式部に「菊の着せ綿」を贈っている。 |
紫式部は「源倫子にも仕えていた」という説 紫式部の歌~一重山吹を贈ってもらったときの歌~ |
長安寺 |
逢坂の関 |
長安寺は逢坂の関付近にあったという関寺の霊跡。 1025年(万寿2年)、清水寺から遣わされた関寺の霊牛と結縁するため、藤原道長・倫子・藤原頼通・藤原教通が参拝。 そのため、逢坂の関は関寺詣で大賑わいとなったのだという。 |
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