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藤原威子(ふじわらのいし・たけこ)は、藤原道長の四女。 母は源倫子。 999年(長保元年)12月23日誕生。 |
1018年(寛仁2年)、9歳年下の後一条天皇(11歳)に入内、同年、中宮となる。 これによって、彰子が太皇太后、妍子が皇太后、威子が皇后と道長の娘たちが三后を占めるという前代未聞の出来事となった。 藤原実資の『小右記』が伝えるところによると・・・ 道長は、 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」 と詠んだのだという。 |
『小右記』によると、威子が正式に皇后(中宮)となった10月16日、清水寺では祈願のための諷誦が修されたのだという。 |
望月の歌~三后を娘たちで占めた藤原道長の栄華と紫式部の歌 |
風俗博物館~道長の栄華・彰子に仕えた紫式部・源氏物語~ |
1074年(延久6年)に章子内親王、1029年(長元2年)に馨子内親王を出産。 皇子を産むことができない威子を後一条天皇は 「過去には女帝が立ったこともある」 といって慰めたのだという。 1036年(長元9年)4月7日、後一条天皇が清涼殿で崩御(29歳)。 その半年後の9月6日、威子も崩御(38歳)。 皇子を産むことはできなかったが・・・ 章子内親王は後冷泉天皇の中宮に、馨子内親王は後三条天皇の中宮となっている。 |
清涼殿跡 (平安宮) |
清涼殿 (京都御所) |
後一条天皇が崩御したのは平安宮の清涼殿。 京都御所の清涼殿は、1855年(安政2年)に平安時代の建築様式で造営。 |
冷泉天皇の櫻本陵は、威子の火葬塚でもある。 火葬後は宇治陵に葬られた。 |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 平安時代の内裏(御所)は、京都御所の西方にあった。 |
大極殿跡 (朝堂院正殿) |
豊楽殿跡 (豊楽院正殿) |
平安宮の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 平安宮は、1227年(安貞元年)の火災で全焼した後は再建されなかった。 |
威子が居所とした飛香舎は、『源氏物語』では藤壺が居所としている。 京都御所に復元されている。 |
後一条天皇の菩提樹院陵は、中宮・藤原威子が産んだ章子内親王の陵墓でもある。 東側には、生母の藤原彰子の発願で創建された東北院がある。 |
上総大輔は、高階成行の娘で『更級日記』の作者・菅原孝標女の継母。 紫式部の娘・大弐三位の義理の姪にあたる。 夫の菅原孝標と離別後、威子の女房となっているらしい。 |
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