紫式部「光る君へ」


望月の歌
三后を娘たちで占めた藤原道長の栄華と
紫式部の歌


編集:yoritomo-japan.com








望月の歌



 この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
 かけたることも なしと思へば



 1018年(寛仁2年)、四女の威子後一条天皇の中宮(皇后)となると・・・

 藤原道長は、三后のすべてを我が娘で占めるという前代未聞の偉業を達成。


 太皇太后(長女・彰子

 皇太后(次女・妍子

 皇后(四女・威子


 望月の歌は、威子が正式に皇后となった10月16日に栄華を極めた道長が詠んだもの。

 「この世で自分の思うようにならないものはない。

 満月に欠けるもののないように・・・」



リンクボタン摂政・関白と摂関政治(藤原氏の政治)

リンクボタン関白にならなかった御堂関白・藤原道長~内覧と摂政と関白~

リンクボタン三条天皇の歌~夜半の月・百人一首収録歌~





~道長は自分の栄華を詠んだのか?~


 望月の歌が詠まれた夜は満月(望月)ではなく、少し欠け始めていたらしい。

 さらに、「この世をば わが世とぞ思ふ」の「世」は「夜」のことで、「栄華を極めた道長の世」という意味ではないという説がある。

 道長は自分の栄華を満月に例えたのではなく、彰子妍子威子を満月に例えたのだという説も。

 とすると望月の歌の解釈は・・・

 「今宵は良い夜だ。月は少し欠けてしまったが、我が娘たち(3人の后)は満月のようだ(欠けていない)」

 となるのかも。





~祝宴の席で生まれた望月の歌~


 望月の歌を伝えたのは藤原実資の『小右記』。

 『小右記』によると・・・

 この日、威子が皇后となった祝の宴が開かれたが、実資は道長から

 「和歌を詠むので返歌してほしい」

 と頼まれた。

 道長は望月の歌を詠んだのだが、実資は・・・

 「美事な御歌で返歌のしようがありません。

 皆でこの歌を詠じてはいかがか」

 と申し上げて、出席者一同が望月の歌を数回詠ったのだという。

 満足した道長は、返歌しなかった実資を責めなかったのだとか。





~紫式部の歌と望月の歌~


 めづらしき 光さしそふ さかづきは
 もちながらこそ ちよもめぐらめ


 この歌は、1008年(寛弘5年)9月15日、後一条天皇が生まれて五日目の「御産養」のときに紫式部が詠んだもの。

 「皇子の誕生で新しい光が射した盃は、望月と同じように欠けることなく、千年もめぐることでしょう」


 道長の栄華を表す歌として語り継がれてきた望月の歌は・・・

 実は紫式部の歌を真似たものだったという説がある。


 参考までに、紫式部がこの歌を詠んだ夜も満月ではなく、少し欠け始めていたらしい。



リンクボタン紫式部の歌~めづらしき・・・後一条天皇の御産養のときの歌~



紫式部の歌





~栄華と出家~


 栄華を極めた道長だったが、望月の歌を詠んだ頃から健康状態が悪化。

 1019年(寛仁3年)2月には眼病が重くなり、胸病の発作に襲われるようになる。

 そして、3月に出家している。



リンクボタン藤原道長の出家と最期










紫式部


紫式部と越前国


源氏物語 光源氏


紫式部の京都 平安宮~源氏物語ゆかりの地~


琵琶湖で紫式部・源氏物語 源氏物語~須磨・明石~


宇治十帖~紫式部『源氏物語』~ 源融・藤原実方ゆかりの陸奥国


紫式部年表



藤原道長


藤原彰子



紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~



葵祭

祇園祭

時代祭




紫式部・源氏物語・光る君へ
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。