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菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)は、『更級日記』の作者。 菅原道真の玄孫。 母は藤原倫寧の娘。 母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母。 1008年(寛弘5年)誕生。 10歳の時に父孝標の任国である上総国へ下向。 ともに下向した継母の上総大輔(高階成行の娘)や姉の影響で紫式部の『源氏物語』に憧れるようになる。 薬師如来像を造って京都で物語が読めるよう祈ったのだとか。 1020年(寛仁4年)、13歳の時に帰京。 著作の『更級日記』は、上総国にいたときからの約40年間を綴った回顧録。 |
継母の上総大輔は、高階成行の娘で孝標らとともに上総国へ下ったため、「上総」と呼ばれる。 紫式部の娘・大弐三位の義理の姪にあたる。 帰京すると孝標と離別し、後一条天皇の中宮・藤原威子の女房となった。 |
高階業遠 |
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※ | 母の藤原倫寧は上総国へ下っていない。 |
※ | 姉は1024年(万寿元年)に亡くなっている。 |
『源氏物語』の登場人物の夕顔や浮舟のような人生を空想しながら暮らしていた娘は・・・ 1039年(長暦3年)、後朱雀天皇の皇女・祐子内親王に出仕し、歌人の源資通と交流している。 翌年には、橘俊通と結婚。 1058年(康平元年)に夫が死去すると、子供たちも独立していたことから、孤独の生活を送ったらしい。 『更級日記』もこの頃に終わっている。 |
源氏供養~地獄に堕ちた紫式部の供養~ |
結婚を機に『源氏物語』への憧れから現実に目覚めた娘は・・・ 『更級日記』に、 「まづ いとはかなく あさまし」(今になってみると、まことにたわいなく、あきれたこと) と記している。 その一方で、神社・仏閣に参拝する物詣に夢中になったらしい。 正法寺・清水寺・長谷寺・東大寺・石山寺・鞍馬寺などに参籠している。 |
菅原孝標女は、夢の中で清水寺の僧から前世は清水寺の仏師だと告げられたのだという。 |
大和国長谷寺は、初瀬寺とも呼ばれ、平安時代には初瀬詣が流行し、藤原道長や藤原道綱母・清少納言・紫式部・赤染衛門も参詣した。 菅原孝標女は、1046年(永承元年)10月25日、わざわざ後冷泉天皇即位の大嘗会の御禊の日に初瀬詣に出発。 世間が熱狂している中での出発は、周りから不思議な目で見られたらしい・・・ 菅原孝標女にとって長谷寺は特別な寺。 「長谷寺縁起文」は、先祖の菅原道真が執筆したと伝えられている。 |
鎌倉の長谷寺に伝えられる「長谷寺縁起絵巻」は、大和国長谷寺の草創と十一面観音造立の由来を描いたもの。 菅原道真が「長谷寺縁起文」を執筆する場面から始まる。 |
石山寺も平安時代には石山詣が盛んに行われ、紫式部が『源氏物語』を書き始めた寺として知られている。 清少納言・和泉式部・藤原道綱母・菅原孝標女も詣でている。 |
平安時代には、貴族による観音信仰が高まり、藤原道長をはじめ、宮中に仕えた紫式部・清少納言などの女流文学者が盛んに観音霊場を参詣した。 |
清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~ |
鞍馬寺は『源氏物語』で光源氏と紫の上が出会った北山の「なにがしの寺」のモデルともいわれる。 清少納言も『枕草子』に九十九折参道のことを書いている。 菅原孝標女も『更級日記』に参籠した時の様子を書いている。 |
北野天満宮は菅原道真を祀る社。 末社の和泉殿社は、菅原孝標女の兄・菅原定義を祀っている。 |
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