|
石山寺は、747年(天平19年)、聖武天皇の勅願で創建された寺院。 開山は良弁。 本尊は如意輪観世音菩薩。 761年(天平宝字5年)から国家的事業として伽藍の整備が行われ、東大寺から仏師が派遣されるなど東大寺との関係が深かった。 そのため、当初は華厳宗に属していたが、平安時代になると醍醐寺の聖宝(しょうぼう)が初代座主に就任したことにより真言密教の寺院となった。 二代座主は聖宝の弟子の観賢(かんげん)、三代座主は菅原道真の孫で観賢の弟子の淳祐(じゅんゆう)が就任。 淳祐は石山寺中興の祖といわれる。 平安時代には藤原兼家・藤原道長などの参詣もあって貴族による石山詣が盛んとなり・・・ 紫式部が『源氏物語』を書き始めた寺として知られ、藤原道綱母の『蜻蛉日記』・赤染衛門の『赤染衛門集』・菅原孝標女の『更級日記』にも描かれている。 清少納言は『枕草子』に「寺は石山寺・仏は如意輪観音」と書き、和泉式部は『和泉式部日記』に恋人関係にあった敦道親王との和歌のやりとりを綴っている。 986年(寛和2年)には円融法皇が参詣し、石山から船で打出浜に渡り、崇福寺を参詣したのだという。 円融天皇の女御・藤原詮子も度々参詣。 後白河法皇は、観音菩薩の効験あらたかな寺として清水寺・石山寺・長谷寺(大和国)・粉河寺(紀伊国)・西寺(近江国)・六角堂を挙げている。 武家との関りも深く、東大門・鐘楼・多宝塔は鎌倉幕府を開いた源頼朝の寄進と伝えられ、室町幕府を開いた足利尊氏は天下泰平を祈願して太刀を奉納したのだという。 織田信長と争った室町幕府最後の将軍足利義昭は石山寺を本陣としている。 現在の伽藍は、豊臣秀吉の側室淀殿の大修復によって完成されたのだという。 西国三十三箇所の十三番。 「後の世を 願うこころは かろくとも ほとけの誓い おもき石山」 御詠歌は、西国三十三所中興の祖といわれる花山法皇が巡礼の際に木の短冊にしたためた和歌なのだという。 |
平安時代には、貴族による観音信仰が高まり、藤原道長をはじめ、宮中に仕えた紫式部・清少納言などの女流文学者が盛んに観音霊場を参詣した。 |
清水詣・石山詣・初瀬詣〜平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺〜 藤原実資の観音信仰と二人の娘〜清水寺・長谷寺・石山寺・六角堂〜 |
東大門 (重文) |
本堂 (国宝) |
三十八所権現社 (重文) |
蓮如堂 (重文) |
観音堂 |
毘沙門堂 |
御影堂 (重文) |
経蔵 (重文) |
鐘楼 (重文) |
多宝塔 (国宝) |
月見亭 |
心経堂 |
光堂 |
大黒堂 |
那須与一地蔵 |
源頼朝供養塔 |
珪灰石 |
くぐり岩 |
松尾芭蕉 |
紫式部像 |
晩年を義仲寺の無名庵で過ごした松尾芭蕉は、石山寺にも度々訪れていたのだという。 |
源氏の間 |
紫式部供養塔 |
「源氏の間」は本堂の相の間にある部屋。 1004年(寛弘元年)8月15日、石山寺に参籠中だった紫式部は、中秋の名月が琵琶湖に映る美しい景色を見て、『源氏物語』を書き始めたのだという。 最初に書いたのは須磨・明石の巻らしい。 紫式部の供養塔は、国の重要美術品に認定されている。 |
源氏供養〜地獄に落とされた紫式部の供養〜 |
紫式部の泉 |
石山紫の道 |
京阪石山寺駅前の「紫式部の泉」は、『源氏物語絵巻』をモチーフにした噴水。 「石山紫の道」は、石山寺駅から石山寺までを『源氏物語』に登場する草花で彩ろうというプロジェクト。 |
970年(天禄元年)、藤原道綱母は夫兼家の不実に悩み、出家を考えて石山寺に参籠。 それを聞いた兼家は石山寺に駆け付けたのだが、物忌中だったため門前に停めた車からは降りず、子の道綱に言葉を伝えさせたのだとか。 |
物忌み〜源氏物語にも描かれた陰陽道信仰〜 藤原道綱母の歌〜嘆きつつひとり寝る夜 夫兼家への皮肉の歌〜 |
「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」は、境内の明王院に設置。 |
743年(天平15年)、「大仏造顕の詔」を発した聖武天皇。 東大寺の大仏造立にあたっては表面に金を施すため大量の黄金が必要だった。 聖武天皇は、良弁に金の山と信じられていた大和国吉野の金峯山で金の産出を祈願するよう命じた。 すると・・・ 良弁の夢に蔵王権現が現われてこう告げた。 「金峯山の黄金は、弥勒菩薩が出現したときに地を覆うために使うので、大仏のためには使えない。 近江国の湖水の南に観音菩薩が現れる場所がある。 そこへ行って祈るがよい」と。 夢のお告げのとおりに石山の地を訪れた良弁は、巨大な岩の上に聖武天皇から預かった聖徳太子の念持仏(金銅如意輪観音像)を祀って祈願すると・・・ 程なく、陸奥国で黄金が産出されて祈願達成した。 しかし、観音像を移動させようとしても岩の上から離れない。 そのため、観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の始まりなのだという。 |
東大寺大仏 |
金峯山寺 |
石山の地を訪れた良弁は、この石の上で釣りをしていた比良明神に出会い、この山が観音の霊地であることを教えられたのだという。 |
観音信者だった源頼朝は、西国三十三箇所の霊場に倣って坂東三十三箇所を発願し、子の実朝が西国霊場を模範とし札所を制定したのだいわれている。 |
観音信者だった源頼朝〜守り本尊は清水寺から授かった正(聖)観音像〜 観音浄土へ船出した下河辺行秀〜補陀洛渡海〜 |
源頼朝の側近中原親能は、石山寺の毘沙門天の加護があったとして信仰し、その妻亀谷禅尼は出家後、石山寺に住したのだという。 |
〜石山寺の座主だったという藤原宗円と不動明王像の伝説〜 |
藤原宗円は、下野宇都宮氏の祖。 石山寺の座主だったのだという。 前九年の役で源頼義が苦戦していると、奥州まで不動明王像を携えて戦勝を祈願し、戦を勝利に導いたのだと伝えられている。 その不動明王像は、源頼光の願いにより、円覚(多田満仲の子)が吉野山中に籠って一刀三礼のもとに彫り上げたと伝えられるもの。 石山寺に安置された後、下野国に移され、現在は多気山不動尊の本尊なのだという。 |
吉野山 |
多気山不動尊 (宇都宮市) |
滋賀県大津市石山寺1-1-1 JR石山駅から京阪バスで約10分 京阪石山寺駅から徒歩約10分 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|