観音浄土へ船出した下河辺行秀〜補陀洛渡海〜 |
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平安時代の中期頃から浄土信仰が盛んになり、阿弥陀仏の西方浄土が人々の信仰を集めるが、平安時代後期になると南の補陀洛浄土への信仰が盛んになっていく。 そして、南の海にある「補陀洛山」に行けば、浄土の中で安楽できるという信仰が広まっていった。 「補陀洛」(補陀落・ふだらく)には、観音菩薩の浄土という意味がある。 |
「補陀洛渡海」とは、生きながら補陀洛浄土を目指して海に出ること。 『吾妻鏡』・『北条九代記』によると、下河辺行秀が補陀洛渡海を行っている。 行秀は、弓の名手として知られた下河辺行平の弟。 1193年(建久4年)、下野国那須野の巻狩りで源頼朝に大鹿を射るよう命じられるが射損じてしまい、その鹿は小山朝政が射止めた。 面目を失った行秀は、その場で髻を切って出家してしまう。 その後、智定房と名乗って修行を積んだ行秀は、1233年(貞永2年)3月7日、三十日分の食料を屋形船に積み、外から釘で密閉された状態で熊野灘から船出した。 船には窓がないので太陽や月の光を見ることはできず、かすかな燈火の中で食事をとり、法華経を読誦しながら、三十余日で補陀洛山に到着。 五十余日滞在した後、再び船に乗り込んで熊野灘に帰ったのだという。 北条泰時のもとに行秀からの書状が届き、出家遁世後の事が詳しく書かれていたというが、その後の消息は不明。 熊野は、西方の極楽浄土、東方の瑠璃浄土、南方の補陀洛浄土の地であるとされ、補陀洛渡海は、慶竜上人が868年(貞観10年)に行って以後、多くの僧が集まり18世紀初頭まで続けられていたらしい。 |
清水寺は、奈良時代後期に創建された観音霊場(西国三十三所の十六番)。 源頼朝の守り本尊は、清水寺から賜った二寸銀の「正(聖)観音像」。 観音信者・源頼朝 |
1181年(養和元年)、源頼朝の祈願所として創建されたと伝えられている。 開山は、頼朝が伊豆の流人時代から交流のあったという文覚。 |
坂東三十三箇所は、源頼朝の観音信仰と、源平の戦いで西国に赴いた武者たちが西国三十三箇所の霊場を観たことで、鎌倉時代初期の開設につながったのだといわれている。 |
一番 杉本寺 (鎌倉) |
二番 岩殿寺 (逗子) |
三番 安養院 (鎌倉) |
四番 長谷寺 (鎌倉) |
石山寺は、西国三十三箇所の十三番。 東大門・鐘楼・多宝塔は頼朝の寄進と伝えられ、頼朝の供養塔も建てられている。 |
四万六千日は、観音菩薩の縁日。 8月10日に観音菩薩にお詣りすると、四万六千日間お詣りしたのと同じご利益があるとされている。 |
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