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小山朝政は、 下野国小山荘を本拠とした小山政光の子。 小山氏第二代当主。 1180年(治承4年)9月3日、挙兵した源頼朝に参向するよう求められ、10月2日には、父政光の後妻寒河尼が実子(結城朝光)を伴って武蔵国隅田宿に宿営中の頼朝を訪ね、朝光を仕えさせていることから、早い時期に頼朝の従ったものと考えられている。 1183年(寿永2年)2月、常陸国の志田義広が蜂起。 平家が東国へ向けて軍を進めていたことから多くの兵を駿河国へ派遣していた頼朝は、下総国の下河辺行平と朝政に対応を託した。 義広に鎌倉攻めを誘われていた朝政は、参陣すると返事をし、喜んだ義広が朝政館へ向かうところを、弟の長沼宗政や八田知家らと攻めて敗走させるという活躍をした(野木宮合戦)。 1184年(元暦元年)9月2日、朝政は、平家追討で源範頼の指揮下に入るよう命じられているが、義経が頼朝に無断で左衛門少尉の任官と檢非違使の宣旨を受けたとき、朝政も兵衛尉に任官された。 そのため、翌年4月15日、平家を壇ノ浦で滅ぼした後の頼朝の手紙で「西国へ下る途中の京都で任官されるなど、どんくさい馬が道草を食っているようなものだ」と罵られている(源義経の無断任官)。 ただ、その前月(3月11日)には、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山宗政・中原親能・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けている。 1189年(文治5年)の奥州征伐に従軍。 出陣前に千葉常胤が献上した源氏の白旗の絹は、朝政が調達している。 頼朝亡き後の1199年(正治元年)10月25日、弟の結城朝光が梶原景時の讒言にあって窮地に立つと、景時を訴える連署状に名を連ねて失脚させた(梶原景時の変)。 1205年(元久2年)8月7日、謀反を疑われた宇都宮頼綱を追討するよう命じられるが、義兄弟であることを理由に断り、8月11日には、頼綱が書いた弁明書に朝政が一筆添えて北条義時に提出している(この事件で頼綱は罪は問われなかったが出家。) 1221年(承久3年)の承久の乱では、北条義時・大江広元・三善善信・二階堂行村・八田知家・宇都宮頼綱らの長老とともに上洛せず鎌倉に留まった。 1238年(嘉禎4年)3月30日死去(84歳)。 |
志田義広が源頼朝に対して反乱を起こした際、小山朝政が陣を張った社(野木宮合戦)。 |
平重衡の南都焼討によって焼失した東大寺の再興に助力していた源頼朝は、戒壇堂の整備に関して御家人の負担とし、小山朝政、千葉常胤などがその役についている。 |
小山氏の守護神須賀神社には、第2代当主で野木宮合戦で活躍して源頼朝の信頼を得た小山朝政と、11代当主で反乱を起こして自害した小山義政の碑がある。 義政が滅亡したことで小山氏の正系は途絶え、結城基光の次男・泰朝が当主となって小山氏が再興されている。 |
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