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1180年(治承4年)、後白河法皇の第三皇子以仁王が平氏討伐の令旨を発すると全国の源氏が立ち上がった。 平治の乱後、伊豆国に流されていた源頼朝も挙兵して鎌倉入りを果たし、10月20日には富士川の戦いで平氏軍を敗走させて東国をその支配下に入れた。 一方、平清盛は、全国で反平氏勢力の蜂起が続く中、12月12日、五男重衡に園城寺(三井寺)を攻めさせて焼き払い、続いて東大寺・興福寺の反平氏勢力を一掃するため、重衡を南都に向かわせ、12月28日には「南都焼討」に及んだ。 これによって興福寺が全焼、東大寺も主要伽藍のほとんどが焼け落ち、難を逃れたのは二月堂・法華堂・転害門などだけだったのだという。 |
平重衡による南都焼討によって焼け落ちた東大寺の再興に奔走したのは俊乗坊重源(当時61歳)。 後白河法皇の支援のもとで、まず行われたのは大仏の鋳造だった。 宋の工人陳和卿(ちんなけい)の協力を得て、1185年(文治元年)には大仏が再興され、開眼供養が行われた。 開眼の筆を執ったのは後白河法皇だった。 続いて、大仏殿の再建。 1192年(建久3年)に後白河法皇が崩御した後は、源頼朝が最大の支援者となって進められた。 1195年(建久6年)、源頼朝は落慶供養参列のため、妻の北条政子、嫡男の源頼家、長女の大姫を伴って上洛している。 |
重源は、1206年(建永元年)、86歳で入滅。 江戸時代に建立された俊乗堂には、国宝の「重源上人坐像」が安置されている。 |
東大寺の再興は、南都焼討の翌年から後白河法皇の支援のもとで始められている。 大勧進職に重源が任命され、まず初めに大仏の鋳造が手掛けられた。 重源の懇願によって宋人の陳和卿が鋳造に当たっている。 鋳造は順調に進められ、1183年(寿永2年)2月11日には右手、4月29日には頭部、翌年正月5日には左手の鋳造が行われた。 |
九条兼実の『玉葉』によると・・・ この年源頼朝は、大仏の鍍金料として千両の金を寄進(奥州の藤原秀衡は五千両の金を寄進した。)。 また、翌1185年(元暦2年)3月7日には、重源に米一万石、砂金一千両、上絹一千疋を寄進したことが『吾妻鏡』に記されている。 そして、金を施された大仏の開眼供養がこの年の8月28日に行われた。 |
次に行われたのは大仏殿の造営。 1186年(文治2年)、重源は東大寺造営料国として周防国を授かり、すぐに下向して杣山(そまやま:材木を切り出す山林)に入ったが、源平合戦の直後のことで、周防国は疲弊しきっていたという。 源頼朝は、1187年(文治3年)3月4日、命令に従わず怠けている地頭らに精勤するよう命ずる文書を出している。 当時、周防国の守護だった佐々木高綱も材木の切り出しに協力し、源頼朝から称賛されている。 その後も源頼朝は、材木の調達に協力し、1194年(建久5年)3月には、大仏の後背料として砂金二百両を寄進し、5月には不足分の百三十両を寄進している。 また、諸国の守護にも東大寺供養の費用を勧進させている。 |
材木を切り出すことに疲れ、動けないでいる人夫たちをみた重源は、その場にあった大石を餅のように引きちぎり、数千万にもして投げた。 人夫たちがそれを食べるとたちまち元気を取り戻し、大木を運ぶことができたという。 |
1195年(建久6年)2月24日、大仏殿の落慶供養に参列するため鎌倉を発った源頼朝は、3月10日、南都に到着。 翌11日には馬千疋を東大寺に献上し、12日に行われた落慶供養に参列している。 上洛・東大寺大仏殿落慶供養 |
大仏殿 (現在) |
大仏殿の模型 (鎌倉期再建時) |
東大寺の再興に積極的に助勢を行った源頼朝。 1195年(建久6年)の大仏殿の落慶供養には数万の兵を引き連れての上洛となった。 源頼朝にとって、平氏が焼失させた東大寺再建への助勢は、人心の掌握や鎌倉権勢を世に示すためにも重要なことだった。 以後、鎌倉と東大寺の関係は深まり、重源の後継者には、鎌倉壽福寺や京都建仁寺を開いた栄西が任じられ、三代には栄西の弟子で鶴岡八幡宮の供僧だった行勇が任じられている。 また、鶴岡八幡宮の別当を勤めた定豪が東大寺の別当に就任したこともあったという。 |
※ | 源頼朝像の画像は東京国立博物館HPより。 |
※ | 重源・栄西・行勇の三代の任期中で東大寺はほぼ旧態に復したという。 |
※ | 鎌倉の極楽寺を開いた忍性や宝戒寺を開いた円観も大勧進職に任じられている。 |
鐘楼 |
面 |
鐘楼は重源の跡を継いだ栄西による再建。 鶴岡八幡宮に伝わる舞楽面と菩薩面は、大仏殿落慶供養に参列した頼朝が鎮守八幡宮(手向山八幡宮)から贈られたものと伝えられている。 |
『吾妻鏡』によれば、東大寺大仏殿の落慶供養に参列した源頼朝は、大仏の鋳造を手掛けた陳和卿に会うことを望むが、和卿は 「多くの人々を殺した罪深い者であるので会いたくない」 と断ったという。 天下を治める頼朝に対してへの暴言だったが、頼朝は怒ることなく、奥州征伐で着用した甲冑・鞍つきの馬三頭・金銀等を褒美として贈っている。 しかし、和卿はその褒美もほとんど突き返し、甲冑と鞍だけをもらい、甲冑は東大寺造営の釘料として、鞍は転害門で行われる「手掻会」(てがいえ)の祭典のために東大寺に納めてしまったという。 のちに和卿は鎌倉を訪れ、三代将軍源実朝に面会している。 |
※ | 手掻会・・・東大寺の鎮守手向山八幡宮の祭礼 |
宋に憧れた将軍〜源実朝の唐船建造・渡宋計画〜 源実朝が請来した仏舎利の伝説 |
東大寺を焼き尽くした平重衡は、一ノ谷の戦いで捕らえられ鎌倉へ送られた。 面会した源頼朝は、その態度に感心して重衡を厚くもてなしたという。 |
しかし、1185年(元暦2年)、平家が壇ノ浦で滅亡すると重衡も南都へ引き渡され、木津川で斬首されている。 |
平重衡による南都焼討後の東大寺の復興は、1185年(元暦2年)に大仏開眼供養、1195年(建久6年)に大仏殿落慶供養が行われ、1203年(建仁3年)には総供養が行われている。 南大門の金剛力士像は総供養のために運慶らが造立したもの。 |
東大寺は、聖武天皇が建立した寺。全国に設置された国分寺の総本山として信仰された。 本尊は奈良の大仏として知られる「銅造盧舎那仏坐像」。 |
奈良県奈良市雑司町406−1 JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から市内循環バス「大仏殿春日大社前」下車徒歩5分 近鉄奈良駅から徒歩約20分 |
東大寺は世界文化遺産 (古都奈良の文化財) |
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