源実朝が請来した仏舎利の伝説 |
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円覚寺の舎利殿に納められている仏舎利は、源実朝が宋国の能仁寺より請来したものと伝えられている。 |
伝説によると・・・ ある時、源実朝は、夢の中で自分が「宋国の能仁寺の長老・南山道宣律師の再誕である」と告げられ、 鶴岡八幡宮の供僧・良真は「長老の侍者の再誕」とも告げらた。 驚いたことに、良真と壽福寺の栄西も同じ夢を見ていたのだといいう。 そして、自分が南山道宣律師の再誕と確信した実朝は、能仁寺に行くことを決意し、渡宋のための船を造らせるが・・・ 船は動かず、渡宋を断念することに。 しかし実朝は、代わりに良真と願性(実朝に仕えた僧)を中心とする使節団を宋国へ派遣。 能仁寺を代参した一行は「返礼に所望するものはあるか」と尋ねられ、舎利を求めたのだという。 はじめは断れたようだが、何とか舎利を手に入れて帰国。 しかし、鎌倉への途中で京都に立ち寄った一行は、朝廷から舎利を欲しがられ、約半年も足止めされてしまう。 これに怒った実朝は、大軍を率いて上洛することを考えたが、安達盛長に諌められたのだとか・・・ 舎利は、実朝に代わって上洛した盛長が朝廷から取り返したのだという。 |
辺津宮にある江島霊迹建寺の碑は、1204年(元久元年)、源実朝が宋国に使節を送った際、宋の慶仁禅師より贈られた石碑と伝えられている。 宋に渡った良真は、慶仁禅師に会い、江の島の地図を見せようとしたところ、禅師は、 「東の名刹であることは聞かなくても知っています」 といって碑石をくださったのだとか。 |
源実朝の命で宋へ渡った良真は、江島神社の辺津宮の開山。 かつて良真像は辺津宮の開山堂にあったが、現在は聖天島に置かれている。 |
仏舎利請来の伝説によると・・・ 朝廷から仏舎利を取り戻したという安達盛長は、1200年(正治2年)に亡くなっているので、実朝が使節を派遣したのはそれ以前の事となるが、 1200年以前となると、まだ源頼朝の時代。 しかも、実朝が生まれたのは1192年(建久3年)。 少々無理があるのかも。 江の島の伝説によると・・・ 実朝が使節を派遣したのは1204年(元久元年)。 実朝は13歳。 将軍になったばかりで後見として北条時政がついていた頃。 江の島の伝説にも少々無理があるのかもしれない。 ただ・・・ 『吾妻鏡』には、1216年(建保4年)に実朝が東大寺の大仏鋳造と大仏殿の建設に貢献した宋の陳和卿に渡宋のための唐船の建造を命じたことが記録されている。 伝説とは時代があわないが、実朝が良真を宋へ派遣したのは確かな事なのかもしれない・・・。 |
※ | 『吾妻鏡』によると、1217年(建暦2年)9月30日、実朝は永福寺で舎利会を行っている。 |
鶴岡八幡宮の若宮の社殿横のビャクシンは、実朝が宋から苗を取り寄せて植えたものと伝えられる。 建長寺のビャクシンと並んで貴重な古木。 |
『吾妻鏡』によると、1212年(建暦2年)6月20日、源実朝は栄西から仏舎利三粒を譲られている。 そして、1214年(建保2年)10月15日、実朝が建てた大慈寺では栄西による舎利会が行われている。 |
源実朝が栄西から譲り受けた仏舎利と宋から請来した仏舎利 臨済宗開祖の栄西と鎌倉 |
円覚寺の舎利殿仏舎利は、大慈寺に納められていたものを北条貞時が移したものなのだと伝えられている。 室町時代、その一部は京都に献じられ、鹿王院に安置されたらしい。 |
京都の鹿王院は、足利義満が創建した寺。 舎利殿に安置されている仏舎利は円覚寺にあったものだという。 |
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