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陳和卿は、宋の工人で、1180年(治承4年)、平重衡の南都焼討によって焼かれた奈良・東大寺の大仏鋳造と大仏殿の建設に尽力した人物。 鎌倉の伝統工芸である「鎌倉彫」は、陳和卿が中国の宋より持ってきた彫漆工芸を真似て、仏師康運(運慶の子)が仏具を作ったのが始まりとされている(参考:鎌倉彫再興碑)。 |
東大寺の大仏 |
東大寺の大仏殿 |
※ | 明王院の「木造不動明王坐像」(重文)は康運の作とする説がある。 |
1195年(建久6年)、源頼朝は妻政子・娘大姫を連れて上洛し、東大寺の落慶法要に参列している。 娘大姫を連れていったのは、入内の話をまとめるため。 この時、頼朝は、陳和卿に会うことを望んだが、和卿は「多くの人の血を流した頼朝」に会うこと拒否した。 それでも頼朝は怒ることなく、奥州征伐で着用した甲冑・鞍つきの馬三頭・金銀等を褒美として贈っている。 しかし、和卿はその褒美もほとんど突き返し、甲冑と鞍だけをもらい、甲冑は東大寺造営の釘料として、鞍は転害門で行われる「手掻会」(てがいえ)の祭典のために東大寺に納めてしまったという。 |
南都焼討と東大寺の再興〜重源と源頼朝〜 |
鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には、1216年(建保4年)、陳和卿が突如鎌倉に現れ、三代将軍源実朝への面会を求めたことが記されている。 和卿は実朝に「将軍はその昔、宋の医王山の長老であり、私はその弟子でありました」という話をしたらしい。 その話を聞いて渡宋の意志を固めた実朝は、和卿に渡宋のための造船を命じたという。 しかし、造られた船は海に浮かぶことができず、実朝の夢は断たれた。 和卿が何故鎌倉に来たのか、また実朝が何故宋に行きたがったのかは不明。 |
宋に憧れた将軍〜源実朝の唐船建造・渡宋計画〜 船玉神社(源実朝の渡宋計画) |
東大寺の南大門は、運慶の金剛力士像が置かれていることで知られているが、金剛力士像の背面に置かれている狛犬(石獅子)は陳和卿の作という説がある。 |
鎌倉大仏の鋳造に携わったとされる丹治久友は河内国の鋳物師。 河内国の鋳物師は、陳和卿の下で東大寺の大仏鋳造に携わったのだという。 その技術を受け継いだのが丹治久友。 丹治久友は、川越の養寿院の銅鐘・東大寺真言院の銅鐘・吉野山の蔵王堂の銅鐘の鋳造にも携わっている。 |
丹治久友〜鎌倉大仏鋳造に携わった鋳物師と銅鐘〜 |
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