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鎌倉大仏は、高徳院の本尊で青銅製の「阿弥陀如来坐像」。 建立当時には金箔が施されていた。 最初の大仏は木像で1243年(寛元元年)に完成したが、台風により崩壊したため、1252年(建長4年)、新たに青銅製の大仏の鋳造が始められ、大仏殿に安置された(完成した時期は不明)。 大仏殿は高さ40メートルにもなる巨大な建物だったというが、1495年(明応4年)の「明応の大地震」による津波で流された(1498年(明応7年)ともいわれる。)。 以後、鎌倉大仏は露坐(ろざ)となる。 大仏建立の理由は不明であるが、死者の怨霊を鎮めるためとする説が有力。 高さ13メートル(台座共)、総重量122トンで宋の影響を受けた仏像は、国宝に指定されている。 高徳院の開山・開基は不明。 鎌倉大仏は鎌倉六阿弥陀の一つ。 鎌倉観音巡礼第23番札所(聖観世音) 高徳院の正式名称は、大異山高徳院清浄泉寺。 |
※ | 鎌倉大仏が建立された頃、付近には死後に出会う十王を祀る円応寺(新居閻魔堂)があった。 鎌倉大仏(極楽)は、長谷観音(救済)・円応寺(地獄)とともに浄土信仰に基づく情景を構成する寺院群の一つだったという説がある。 |
極楽寺坂 越え行けば 長谷観音の 堂近く 露坐の大仏 おわします |
1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿の落慶供養に参列し、東大寺の大仏を見た源頼朝は、東国にも大仏を造りたいと願っていたのだという。 しかし、それを果たすことなくこの世を去ってしまったことから、侍女の稲多野局(いなだのつぼね)がその志を受け継いで造立の発起をし、僧浄光が勧進して造立されたのだという。 北条政子が助力したとも。 鎌倉大仏の後ろには、稲多局の笠塔婆が建てられている。 |
奈良の大仏と鎌倉の大仏 南都焼討と東大寺の再興〜重源と源頼朝〜 |
鎌倉の仏像で唯一国宝に指定されている鎌倉大仏は、誰が何の目的でどのように鋳造したのか・・・? 鎌倉大仏を安置するために建てられた大仏殿・・・。 鎌倉大仏はいつから露坐なのか。 |
鎌倉大仏は、木製の大仏・金銅製の大仏ともに、浄光が勧進して造立されたのだと伝えられている。 千葉県市原市には、浄光の菩提を弔うために造立された善光寺阿弥陀が伝えられている。 |
鎌倉大仏の鋳造には丹治久友という鋳物師が携わったと伝えられている。 丹治久友は、1264年(文永元年)に鋳造された東大寺塔頭真言院の梵鐘鋳造にも携わり、その鐘銘には「鋳物師新大仏寺大工」とある。 また同年、鋳造された大和吉野山の蔵王堂(金峯山寺)の鐘銘には「鎌倉新大仏鋳物師丹治久友」とあったのだという(鐘は現存しないが銘文の拓本が残されている。)。 「新大仏」というのは、東大寺の大仏に対しての呼び名と考えられる。 このことから、鎌倉大仏は1264年(文永元年)には完成していたという推測が可能となる。 |
鎌倉大仏殿跡 |
大仏殿勧進状 |
丹治久友〜鎌倉大仏鋳造に携わった鋳物師と銅鐘〜 物部氏〜鎌倉大仏鋳造に携わった鋳物師と銅鐘〜 |
仁王門 |
白色大理石の狛犬 |
大仏切通の地蔵尊 |
大仏さまの大わらじ |
大仏背後の蓮弁 |
長与専斎の碑 |
鎌倉大仏の胎内 |
保存・修理工事 |
観月堂 |
与謝野晶子歌碑 |
金沢文庫の『大仏旨趣』によると、大仏建立の勧進を務めた浄光は、鶴岡八幡宮に参籠して阿弥陀仏を造るようお告げを受けた。 八幡大菩薩の本地(本来の仏)は阿弥陀如来なのだといわれ、大仏は鶴岡八幡宮の本地仏として造立されたのだという。 |
『鎌倉大仏縁起』によると、大仏の鎮守は伊勢明神の別宮(甘縄神明神社)だったのだという。 |
三代執権北条泰時は、1241年(仁治2年)4月29日、「囚人が逐電してしまうのは預かり人の罪」として、罰金を徴収して大仏殿建設に寄付することに。 翌年3月3日には、僧徒の帯刀を禁じ、刀剣を没収して大仏造立のために奉げることを決定している。 |
高徳院は、極楽寺の忍性が別当を勤めていた時期があり、その後、建長寺に管理されていたという。 江戸時代に入ると増上寺の祐天の発願で境内が整備され、大仏も補修された。 この時に材木座の光明寺の末寺になったと考えられている。 光明寺住職の引退後の隠居所でもあった。 |
飢饉・天災と極楽寺・忍性の救済事業 |
源頼朝も使用した本小松石〜頼朝船出の地:真鶴〜 |
大仏切通 (鎌倉七口) |
葛原ヶ岡・大仏 ハイキングコース |
鎌倉市長谷4−2−28 0467(22)0703 江ノ電「長谷駅」から徒歩10分 |
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