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『鎌倉大仏縁起』によると、 1195年(建久6年)、源頼朝は東大寺の大仏殿の落慶供養に参列するため上洛。 上洛には侍女の稲多野局(いなだのつぼね)も付き従っていた。 東大寺の大仏を見た頼朝は、「このような大像を東国にも建立して護持を祈る」ことを望んでいたのだという。 しかし、頼朝はそれを果たすことなく、亡くなってしまう。 稲多野局は、頼朝の所願を果たすため鶴岡八幡宮に祈願。 深沢の里の総国分寺の傍らに庵を営んで資金調達に努力し、それを北条政子も助力したのだという。 そして、四代将軍藤原頼経が浄光に勧進僧に命じた。 浄光は遠江の人で、平重衡の南都焼討で灰燼に帰した東大寺の復興に尽力した重源の高弟だったのだという。 こうして、1243年(寛元元年)に木像の大仏と大仏殿の供養が行われたが・・・ 1247年(宝治元年)の大風で大仏殿が崩壊し、大仏も雨露にうたれて損壊してしまう。 今度は金銅の大仏を鋳る大願をたてた稲多野局は、五代将軍藤原頼嗣に請い、造立を許された。 1252年(建長4年)8月、六代将軍宗尊親王の外護によって金銅五丈の無量寿仏(阿弥陀如来)の大像が完成したのだという。 |
所願が成就した稲多野局は、翌年5月23日に死去。 笠塔婆の側面には、「稲多野殿 建長五癸丑年五月二十三日」と刻まれている。 |
鎌倉大仏(高徳院)の入り口には、「聖武帝草創 東三十三箇国 総国分寺」と刻まれた石柱が建てられている。 『鎌倉大仏縁起』によると、737年(天平9年)、聖武天皇の勅願により関東総国分寺としての清浄泉寺が建立されたのだという。 奉行したのは染屋時忠。 開基は行基。 参考までに、高徳院の正式名称は「大異山高徳院清浄泉寺」。 |
大仏の鎮守は、伊勢明神の別宮(甘縄神明神社)だったのだという。 |
鎌倉大仏建立には、糊売り婆さんの伝説ものこされているが、『鎌倉大仏縁起』によると、関東で糊を業とするのは稲多野局から始まったのだという。 |
鎌倉大仏は、中国の宋朝様式の中にも日本風の意匠が認められる傑作。 昭和33年2月8日、国宝に指定されている。 |
鎌倉市長谷4−2−28 0467(22)0703 江ノ電「長谷駅」から徒歩10分 |
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