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※ | 画像は鎌倉文化交流館のパネルより。 |
「露坐の大仏」として知られる鎌倉大仏だが、かつては、東大寺の大仏と同じように大きな大仏殿の中に安置されていた。 鎌倉大仏の周囲に置かれている59個の巨大な石は、その礎石として使用されたもの。 平成12年から行われた発掘調査では、礎石の根固め遺構や大仏の鋳造過程を示す遺構が確認された。 2004年(平成16年)2月27日には、「鎌倉大仏殿跡」として国の指定史跡となっている。 |
大仏殿は、幅約44メートル・奥行約42.5mという巨大な建物で、禅宗様建築だったと推定されている。 鎌倉大仏の鋳造が開始された1252年(建長4年)頃の鎌倉では、北条時頼が宋の禅僧・蘭渓道隆を向かい入れ、建長寺を創建。 蘭渓道隆により新たな建築様式が持ち込まれていた。 |
1180年(治承4年)に平重衡の南都焼討によって焼失した東大寺。 大勧進として東大寺の再建にあたった重源は入宋経験があり、大陸の新しい建築様式を導入して大仏殿や南大門を再建した。 その建築様式は大仏様と呼ばれている。 |
東大寺大仏殿 |
東大寺南大門 |
大仏殿は、度重なる災害等で倒壊するが、その度に再建されてきたという。 しかし、1495年(明応4年)8月15日に発生した「明応の大地震」によって大仏殿が崩壊し、鎌倉大仏は露坐となったと伝えられている(『鎌倉大日記』の記述)。 『鎌倉大日記』は、この地震での溺死者は200人と伝えている。 |
『妙法寺記』では、大仏殿が崩壊したのは1498年(明応8年)8月25日の出来事とされている。 |
1486年(文明18年)、鎌倉を訪れた万里集九は、このときすでに鎌倉大仏は露坐であったと『梅花無盡蔵』に記している。 万里集九は、京都相国寺の僧だったが、当時は太田道灌に招かれて江戸城に寄宿していた。 もしかすると、一般的に伝えられている「明応の大地震」以前に大仏殿はなくなっていたのかもしれない。 |
1335年(建武2年)、新田義貞によって滅ぼされた北条高時の遺児時行が反乱を起こして鎌倉に攻め入った(参考:中先代の乱)。 そのとき暴風雨に襲われたため大仏殿に避難したが、棟梁が折れ兵士500人が圧死したと伝えられている。 |
北条得宗家の滅亡〜最後の得宗北条時行〜(okadoのブログ) |
大仏再建勧進状は、1879年(明治12年)、高徳院の住職が大仏殿再興を発願して発行したもの。 |
鎌倉大仏は、中国の宋朝様式の中にも日本風の意匠が認められる傑作。 昭和33年2月8日、国宝に指定されている。 |
鎌倉市長谷4−2−28 0467(22)0703 江ノ電「長谷駅」から徒歩10分 |
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