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稲村ヶ崎は、由比ヶ浜と七里ヶ浜を分ける岬。 名の由来は、稲穂を重ねたように見えるためだといわれている。 |
『北条九代記』や『保暦間記』は、1198年(建久9年)12月27日、相模川の橋供養に参列した源頼朝は、その帰路、稲村ヶ崎で安徳天皇の怨霊と出会い、病気となって、翌年正月13日に亡くなったのだと伝えている。 安徳天皇は、壇ノ浦の戦いで平家一門とともに入水、阿弥陀寺に祀られた(現在の赤間神宮)。 |
源義経や安徳天皇の怨霊が・・・ 源頼朝落馬の地 |
大海の 磯もとどろに 寄する波 われてくだけて さけて散るかも |
源実朝の歌が似合う場所。 この歌がどこの海を見て詠まれたかは不明ですが・・・ |
稲村ヶ崎は、新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場。 新田義貞が海に黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が引き、海上の北条軍がはるか遠くに流されたため、稲村ヶ崎を突破できたという伝説がある。 新田義貞の伝説は、尋常小学校の唱歌「鎌倉」にも「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎名将の剣投ぜし古戦場」と歌われている。 |
稲村ヶ崎碑の後方には明治天皇の歌碑が建てられている。 「なげ入れしつるぎの光あらはれて千尋の海も陸となりぬる」 |
明治天皇を祀る明治神宮は、2020年(令和2年)で創建100年。 |
生品神社の新田義貞像は、稲村ヶ崎で龍神に祈り、太刀を海に投じる光景を表したもの。 |
鎌倉海浜公園 (稲村ガ崎地区) |
関東の富士見百景 |
稲村ヶ崎は海岸線に点在する3つの鎌倉海浜公園のうちの一つ。 |
新田義貞は、足利尊氏と同じく源義家(八幡太郎義家)の子義国を祖とする源氏。 上野国新田荘(現在の群馬県太田市)を領した新田家八代当主。 新田氏は、鎌倉御家人として仕えていたが、源頼朝の鎌倉幕府成立に非協力的であったことから、足利氏と比べるとその地位は低かった。 |
1333年(元弘3年)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けて、新田荘生品神社で討幕の挙兵をする。 挙兵時は150騎程度だったといわれているが、軍を進めるに従いその数を増し、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで幕府軍を破り進軍した。 5月21日、大潮に乗じて稲村ヶ崎を突破し鎌倉に攻め入った義貞は、北条高時ら一族を東勝寺においての自刃に追い込み、鎌倉幕府を滅ぼした。 しかし、後醍醐天皇の「建武の新政」は、長くは続かず、足利尊氏を棟梁としての武家による政治が望まれるようになると、尊氏と義貞は敵対し、義貞は敗れて越前で最期を遂げた。 参考:聖福寺跡(新田義貞が陣を布いたとされる場所) |
ボート遭難碑 |
ロベルト・コッホ 記念碑 |
かながわの 景勝50選 |
西田幾多郎歌碑 |
1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国の海軍艦隊が浦賀に来航した(黒船来航)。 艦隊を率いてきたのはマシュー・ペリー提督。 日本人からはペルリ(彼理)と呼ばれていたらしい。 この黒船来航で、稲村ヶ崎には長州藩によって砲台と見張番所が設けられた。 霊山山頂には坂ノ下の村民が交替で見張り番をして、黒船がやってきたら半鐘を鳴らす手筈になっていたという。 |
昔、稲村ヶ崎から極楽寺へと向かう道の曲がり角には、茶店があった。 この茶店には、鎌倉絵図を出して講釈をして、その絵図を十二文で売りつける婆さんがいたそうだ。 江ノ島からの遊覧客をつかまえるのに絶好の場所だったとみえて、3軒ほどの茶店があったらしい。 |
磯づたいの道 |
アジサイ |
イソギク |
ススキ |
稲村ヶ崎古戦場 稲村ヶ崎 鎌倉の四角四境祭 稲村路と霊山山(霊山ヶ崎) 極楽寺から稲村ヶ崎へ |
由比ヶ浜と七里ヶ浜を分ける稲村ヶ崎は、新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場。 |
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