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1184年(寿永3年)2月7日の一ノ谷の戦いで敗れ、翌1185年(元暦2年)2月19日の屋島の戦いでも源義経の奇襲によって敗れた平家一門は、瀬戸内海を転々としたのち長門国の彦島に本陣を布いた。 一方の鎌倉軍は、屋島の戦いの前の2月1日、源範頼が筑前国の葦屋浦で平家方の豪族原田種直らを破って九州へ上陸し、平家軍の背後を遮断することに成功していた。 そして、3月24日、源義経率いる水軍と平知盛率いる水軍が、長門国赤間関壇ノ浦の海上で衝突することとなる。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1185年(元暦2年)3月22日、源義経が壇ノ浦を目指して出航。 それを聞きつけて大島の津までやって来た三浦義澄に案内された義経は、平家軍の陣営から30余町(約3q)あまりの壇ノ浦の奥津に布陣。 一方の平家軍は、田浦付近に集結。 そして・・・ 3月24日卯の刻(午前6時頃)、源平両軍が3町(300m)を隔て対峙し、最後の合戦が始まった。 合戦が開始された時刻は定かではないが、午の刻(正午頃)には平家軍の敗北に終わっている。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 平家軍の敗北により、二位尼(平時子:平清盛の妻)は三種の神器の一つ宝剣を持ち、按察局(あぜのつぼね)は安徳帝を抱えて入水。 建礼門院(平清盛の娘徳子)も海へ飛び込むが源五右馬允(げんごうまのじょう)によって助けられ、安徳帝を抱いて海へ身を投げた按察局も同様に助けられている。 平家一門の平教盛らも次々に入水し、経盛は一度上陸して出家してから入水したのだという。 しかし、総大将の宗盛とその子清宗は、伊勢三郎能盛によって捕虜とされている。 こうして平家は壇ノ浦に滅亡した。 |
源氏軍に吉事の前兆〜屋島・壇ノ浦の戦いの伝説〜 |
日の丸御旗〜源義経・北畠顕家・武田信玄・徳川家康が掲げた旗〜 |
『吾妻鏡』によると・・・ 4月11日、勝長寿院の立柱式に立ち会っていた源頼朝のもとに届いた義経からの巻物(報告書)によると・・・ 長門国赤間関の海上で戦った兵船は、源氏軍840余艘、平家軍500余艘。 海に没した者は・・・ 安徳帝 二位尼(平時子・清盛の妻) 平教盛(平忠盛の四男・清盛の異母弟) 平知盛(清盛の四男) 平経盛(平忠盛の三男・清盛の異母弟) 平資盛(平重盛の次男) 平有盛(平重盛の四男) 平行盛(平基盛(清盛の次男)の長男) 生け捕った者は・・・ 平宗盛(平氏の総大将・清盛の三男) 平時忠(公家) 平清宗(宗盛の長男) 平信基(廷臣) 平時実(公卿) 藤原尹明(公家) 副将丸(平能宗・宗盛の次男) など。 三種の神器のうち、宝剣(草薙剣)は、紛失したため探索中。 頼朝は、この巻物を手にとって鶴岡八幡宮の方に向かい、しばらく声も出さず座っていたのだという。 |
三種の神器は、歴代天皇が継承してきた鏡・玉・剣。 鏡=八咫鏡 (やたのかがみ) 玉=八尺瓊勾玉 (やさかにのまがたま) 剣=草薙剣 (くさなぎのつるぎ) 1183年(寿永2年)8月、後白河法皇は、三種の神器がないまま安徳天皇の異母弟の後鳥羽天皇を即位させている。 したがって、安徳天皇から後鳥羽天皇への三種の神器の引継ぎが必要だった。 『吾妻鏡』によると・・・ 頼朝は、壇ノ浦の戦いの前に、源範頼に対し、「平家追討に当たっては考えをめぐらせ、三種の神器と安徳天皇を無事に京都へお返しするように」と命じていた。 義経からの報告書を読んだ頼朝が言葉も出なかったのは、安徳天皇と草薙剣が海に沈んでしまったことのショックからかもしれない。 |
壇ノ浦の戦いと三種の神器と頼朝・範頼・義経 |
安徳天皇陵 |
平家一門の墓 |
平家の一杯水 |
耳なし芳一 |
捕虜となった平家の総大将平宗盛は、鎌倉に送られた後、6月21日、近江国篠原宿で斬首された。 |
山口県下関市みもすそ川町 JR下関駅からバス「御裳川」下車 |
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