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1184年(寿永3年)2月7日、一ノ谷を源範頼と源義経に攻められ大敗を喫した平家一門は、讃岐国の屋島を本拠とし、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置いていた。 一方の水軍を保有しない鎌倉軍は攻め入ることができず、範頼が鎌倉へ帰還して休戦状態となった。 6月に入って平家の勢力が山陽道に及ぶようになると、源頼朝は代官として京に留めていた義経を山陽道へ遠征させようと考えるが、7月、三日平氏の乱が勃発。 義経はその鎮圧にあたることとなり、範頼を山陽道へ出兵させている。 |
※ | 三日平氏の乱は伊賀・伊勢に潜伏していた平氏残党が蜂起した事件。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1184年(元暦元年)8月8日、源範頼が一千騎を率いて鎌倉を出発。 8月27日入京して追討使に任じられた範頼は、9月1日、西海(九州)へ出陣。 12月には藤戸の戦いで平家軍を破り、翌1185年(元暦2年)1月には赤間関に到達するが、兵糧の調達に窮するようになり、侍所別当の和田義盛などは密かに鎌倉へ帰ろうとする始末だったのだという。 それでも、1月26日に豊後国の臼杵惟隆と弟の緒方惟栄から軍船82艘が献上され、周防国の宇佐那木遠隆からは兵糧米が献上されたことで、2月1日、葦屋浦の戦いで平家軍を破って豊後国に上陸し、彦島の平家軍を孤立させることに成功する。 その後、範頼軍は長門国に入ったが、兵糧不足で周防国まで退いている。 |
一方、京に留まっていた源義経は、1184年(元暦元年)8月6日、源頼朝に無断で後白河法皇から検非違使尉に任じられた。 そのため、平家追討の将軍を見合わせられている。 さらに10月には昇殿が許されて、後白河法皇との結びつきを強くしていくが、こういった頼朝の意思に反する行動は、源平合戦後の悲劇へと繋がっていく。 |
〜義経が平家追討から外された本当の理由〜 |
『吾妻鏡』は、義経が頼朝に無断で任官したことで平家追討から外されたと伝えているが、近年の研究では、京都の治安維持のためには義経が必要であり、義経の出陣には、後白河法皇や貴族らの強い反対があったためという説が有力となっている。 義経の無断任官 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1185年(元暦2年)2月13日、源頼朝は鶴岡八幡宮に鎌倉中の僧侶を集めて平家追討の加護があるよう読経させるとともに、兵糧調達に苦心する範頼軍に屋島の平家を攻めるよう命を下す。 2月16日、義経を先陣とする軍兵が出陣。 |
※ | 義経の出陣が頼朝の命によるものかは不明。 |
2月17日、義経は摂津国の渡部の津から船で海を渡ろうとするが、暴風によって多くの船が破損。 船を出そうとする兵がいない中、義経は「朝廷の敵・平家を追討するのに、しばらくの間留まることは申し訳のないことだ。風雨の難を顧みるべきではない」として、2月18日丑尅(午前2時頃)、五艘の船を出航させた。 卯尅(午前6時頃)、阿波国の椿港に到着。 直ちに150騎ととも上陸し、阿波国の近藤親家を案内人として屋島へ向った。 途中の桂浦では、桜庭良遠が城を捨てて逃げてしまったという。 |
2月18日夜、阿波国と讃岐国の境の中山を越え、2月19日辰尅(午前8時頃)、屋島の平家軍の向かいの浦へ到着し、牟礼や高松の民家を焼き払った。 この攻撃で、平宗盛は、安徳天皇と一門を連れて海上の船へと逃亡。 赤地錦の直垂、紅下濃の鎧を着け、黒馬にまたがった義経は、田代信綱、金子家忠、その子・近則、伊勢能盛を引き連れて、逃げる平家を波打ち際へ攻めた。 平家軍は船を進めながら応戦。 その一方で、佐藤継信、佐藤忠信、後藤実基、後藤基清らが安徳天皇の内裏や宗盛の陣営の焼くと、平家軍の越中盛継・上総忠光らは船を降りて宮門の前に陣を構え、合戦が始まった。 この合戦で佐藤継信が討死。 悲しんだ義経は、僧に頼んで千株松の根元に葬り、名馬「大夫黒」を布施として与えたのだという。 2月21日、平家軍が讃岐国志度の志度寺へ立て籠もったが、義経が80騎を引き連れていくと、田内教能が降伏服従。 同日、河野水軍の河野通信が30艘の軍船を整えて参陣し、義経は阿波国へと渡っていった。 都では、熊野別当の湛増が源氏軍へ加勢するために、同じように海を渡るという噂が流れたのだとか・・・。 敗れた平家は、瀬戸内海を転々としたのち長門国の彦島に本陣を布いたが、3月24日、源平両軍は壇ノ浦の海上で最後の合戦をすることとなる。 |
赤牛崎 |
相引川 |
総門跡 |
安徳天皇社 |
義経鞍掛松 |
瓜生が丘 |
伝説!逆櫓の論争 源氏軍に吉事の前兆〜屋島・壇ノ浦の戦いの伝説〜 |
佐藤継信の墓 |
佐藤継信の碑 |
菊王丸の墓 |
大夫黒の墓 |
駒立岩 |
祈り岩 |
「南無八幡大菩薩、我が国の明神、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給え」 |
景清錣引伝説 |
義経弓流し跡 |
長刀泉 |
菜切地蔵 |
住吉社(住吉大社)の神主の津守長盛が京都に赴いて院にした報告によると、1185年(元暦2年)2月16日深夜、神殿から神鏑が西方を指して飛び去ったのだという。 それから間もない2月19日、源義経は平家の拠る屋島を奇襲、3月24日には、壇ノ浦で滅亡させた。 |
住吉大社の津守長盛の母は、源為義の娘で、源頼朝や源義経の従兄弟という説がある。 のちに、頼朝と対立して都を落ちた義経が吉野山へ逃れる際、津守長盛のもとで一夜を過ごしたという言い伝えも残されている。 |
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