『吾妻鏡』によると、源頼朝は、1198年(建久9年)、稲毛重成が造った橋の供養に出席。 その帰路に落馬して、程なく亡くなったのだといいます。 |
旧相模川橋脚は、頼朝が渡り初めをした橋の遺構ではないかと考えられています。 『北条九代記』によると、1198年(建久9年)12月、頼朝は相模川に架けられた橋の供養参列のために出かけます。 この橋は、稲毛重成が亡き妻の供養のために造った橋でした。 重成の妻は北条時政の娘で、1195年(建久6年)、重成が頼朝の東大寺の大仏殿落慶供養に随行していた時に危篤となり亡くなったのだと伝えられています。 |
『保暦間記』によると・・・ 橋供養の帰り、頼朝は八的原(やまとはら)で弟の源義経・叔父の源行家・同じく叔父の源義広(志田義広)の怨霊に出会ったとのだといいます。 そして、稲村ヶ崎では安徳天皇の亡霊が現れたのだとか。 |
『北条九代記』によると・・・ 稲村ヶ崎で安徳天皇の亡霊を見た頼朝は、急にめまいがして倒れて落馬。 すぐに供をしていた者が助け起こしますが、御所に帰った後に病気となり、1199年(建久10年)1月13日に亡くなったのだといいます。 |
弁慶塚 (茅ヶ崎市) |
御霊神社 (茅ヶ崎市) |
頼朝が義経らの怨霊に出会ったという八的原が何処なのかは不明ですが、茅ヶ崎市の鶴嶺八幡宮の参道には、里人が義経一族の霊を慰めるため造ったという弁慶塚があります。 御霊神社には、亡霊となって現れた義経が合祀されています。 |
赤間神宮は、壇ノ浦の戦いで平家一門とともに海に沈んだ安徳天皇を祀る社。 |
安徳天皇陵 |
水天門 |
赤間神宮も水天門は、壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇が住んだという竜宮城をイメージした門。 『平家物語』によると、安徳天皇は神璽と宝剣を身につけた二位尼(平時子)に抱かれ入水(数え年8歳(満6歳4か月))。 二位尼は「海の中にも都はございます」と、幼い安徳天皇を慰めながら入水したのだといいます。 |
1199年(建久10年)1月13日に亡くなった頼朝は、持仏堂に葬られました。 大慈寺建立縁起と頼朝の死因 |
|