1198年(建久9年)12月27日、相模川の橋供養に参列した源頼朝は、その帰路に落馬し、翌1199年(建久10年)1月13日に亡くなったと伝えられています。 ただ、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』は、1196年(建久7年)から頼朝が亡くなるまでの記事を欠いていることから、頼朝の死の原因についての詳しいことは不明です。 |
源義経や安徳天皇の怨霊が・・・ 大慈寺建立縁起と頼朝の死因 (落馬の原因は病気?) |
旧相模川橋脚は、相模川に架けられていた橋の遺構で、頼朝が渡り初めをした橋ではないかと考えられています。 相模川の橋は、稲毛重成が亡き妻(北条時政の娘、北条政子・義時の妹)の供養のために架けた橋。 |
妻の死と出家と橋供養と頼朝の死〜稲毛重成〜 |
頼朝は、1189年(文治5年)、奥州征伐の祈願所として建てられた持仏堂に葬られたと伝えられています(頼朝の死後、持仏堂は、法華堂と呼ばれました。)。 現在建てられている墓塔は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪が建てたもので、島津家の紋「丸に十字」を目にすることができます。 |
横浜市戸塚区にある平戸白旗神社には、鶴岡八幡宮の供僧坊の一つ相承院から送られたという「頼朝の遺髪」が伝えられています。 |
石山寺 (大津市) |
源頼朝供養塔 (石山寺) |
石山寺の東大門・鐘楼・多宝塔は頼朝の寄進と伝えられ、境内には供養塔が建てられています。 隣の供養塔は頼朝の次女三幡の乳母だった亀谷禅尼のもの。 |
金剛三昧院 (高野山) |
源氏三代の五輪塔 (高野山) |
高野山の金剛三昧院は、北条政子の発願で頼朝と実朝の供養のために建てられた寺院。 源氏三代(頼朝・頼家・実朝)の五輪塔は、頼朝の三男で政子が帰依した貞暁が建てたもの。 |
晩年の頼朝は、1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿の落慶供養に参列するため上洛し、大姫の入内運動を行います。 頼朝が接近したのは、これまで協力体制を築いてきた関白九条兼実ではなく、反幕派の丹後局と源通親でした。 翌1196年(建久7年)11月には、通親の讒言によって兼実が失脚しますが(建久7年の政変)、頼朝はこれを黙認していたといいます。 そして、1197年(建久8年)7月14日、大姫が亡くなり、頼朝の夢は断たれました。 その後、通親の養女が生んだ土御門天皇が即位し、反幕派の通親が天皇の外戚として権勢を強めることとなります。 『吾妻鏡』は、1196年(建久7年)正月から1199年(正治元年)正月までの約3カ年の記事を欠いています。 江戸時代には、『吾妻鏡』の愛読者だった徳川家康が「英雄の最期をはばかって削除させた」という噂もあったようです。 失政ともいえる頼朝の晩年の行動によって、鎌倉では「新しい指導者が求められていた」と考えることも可能で、暗殺されたのではないかとも考えられます。 |
頼朝は、大姫入内の夢が断たれた後、次女の三幡を入内させようと運動しています。 三幡の入内はほぼ決まっていたともいわれていますが、頼朝の死後間もない6月30日、三幡はこの世を去りました。 頼朝の跡を継いだ長男・頼家は、1203年(建仁3年)、修禅寺に追放され、翌年7月18日、暗殺されました(比企の乱)。 頼家の跡は頼朝の次男・実朝が継ぎますが、1219年(承久元年)1月27日、頼家の子公暁によって暗殺されています(源実朝の暗殺)。 |
鶴岡八幡宮境内の白旗神社は、朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り、北条政子によって創建されたと伝えられています。 |
甲斐善光寺の「木造源頼朝坐像」は、頼朝が信仰した信濃善光寺にあったもの。 頼朝像としては国内最古の彫像。 「木造源実朝坐像」も最古の彫像と判明している。 |
日光東照宮 |
神輿 (日光東照宮) |
日光東照宮は徳川家康を祀るために創建されましたが、明治時代になって豊臣秀吉と源頼朝も祀られています。 |
瀧山寺は、頼朝の従兄・寛伝が住持した寺。 聖観音菩薩及び両脇侍〈梵天・帝釈天〉像は、1201年(正治3年)、寛伝が頼朝の三回忌に運慶とその長男湛慶に造立させたものと伝えられています。 |
長興山紹太寺の本尊・釈迦牟尼は、北条政子が頼朝の三回忌にあたって伊勢原に建立した浄業寺の本尊だったのだといわれています。 |
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