1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿落慶供養に出席するため上洛した源頼朝は、妻の政子、長男の頼家、長女の大姫を伴っていました。 この上洛の真の目的は、大姫を後鳥羽天皇の妃にすることだったともいわれています。 当時、大姫は17歳前後ではなかったかといわれています。 |
頼朝は、これまで関白九条兼実との協力体制を築き、朝廷と幕府の関係を円滑に運営してきました。 特に、後白河法皇亡き後、征夷大将軍に任ぜられたのは、兼実の力によるものでした。 しかし、この上洛では、兼実と敵対関係にある丹後局と源通親に接近し、大姫の入内運動を行っています。 頼朝の支持が、兼実から丹後局と通親に移ったことは、兼実の失脚に繋がりました。 そして、1196年(建久7年)の政変では、兼実は関白を罷免され、弟の慈円も天台座主(延暦寺の貫主)の地位を奪われることになります。 この政変について頼朝も知っていたとする説があります。 兼実が関白を罷免された後、京では、「兼実邸に出入りする者は頼朝のお咎めを受ける」という噂が流れたともいいます。 |
東福寺 (京都) |
最勝金剛院 (東福寺) |
九条兼実は、藤原忠通の三男。 東福寺は、兼実の孫・道家が菩提寺として繁栄した法性寺跡地に建立した寺院。 最勝金剛院は九条家の墓所を管理する東福寺の特別由緒寺院。 |
賀茂詣は、賀茂祭(葵祭)の前日に摂政・関白が賀茂社を参拝すること。 『吾妻鏡』によると、1195年(建久6年)4月17日、上洛中だった頼朝は御家人たちに関白九条兼実の賀茂詣の見物を禁止しています。 この禁止令は、兼実との関係を断ち切ったことを意味するという説もあるようですが、どうなのでしょう? |
1197年(建久8年)7月14日、大姫がこの世を去ります。 おそらく20歳前後だったのでしょう。 大姫の死によって頼朝の夢は断たれました。 そして、頼朝が行った大姫の入内運動は、親幕派の兼実を失脚させ、反幕派の通親の権力を増大させてしまいました。 |
1198年(建久9年)、後鳥羽上皇が退位して土御門天皇が即位します。 土御門天皇は通親の養女が産んでいますので、反幕派の通親は天皇の外祖父となりました。 |
信濃善光寺の参詣 |
英雄の死 |
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