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扇ヶ谷のJR横須賀線ガード近く亀ヶ谷坂の入口に、源頼朝の娘大姫の守本尊を祀る岩船地蔵堂がある。 守本尊とされる石造地蔵尊(岩船地蔵)は、舟形光背をもつもので、岩船地蔵の名の由来となっている。 1691年(元禄3年)に堂が建て替えられたときに木造地蔵尊が安置された。 その胎内の銘札には「源頼朝の息女の守本尊」と書かれていたという。 その当時、石造地蔵尊は縁の下に置かれていたのだとか。 最近になって新しい堂に建て替えられ、木造地蔵尊を前に、石造地蔵尊をその奥に安置している。 外から拝観できるのは、木造地蔵尊のみで石造地蔵尊を見ることはできない。 岩船地蔵堂は海蔵寺に管理されている。 |
大姫の婿となった義高(清水冠者)は、木曽義仲の長男。 1183年(寿永2年)に挙兵した木曽義仲は、源頼朝と対立したが、長男義高を人質として差し出すことで和睦した。 義高は、名目上、大姫の婿ということで鎌倉に送られてきている。 大姫も義高に懐いて幸せに暮らしていたが・・・ 1184年(元暦元年)正月20日、頼朝の命によって上洛した源範頼・源義経らに父義仲が討たれた。 4月になると、頼朝は義高も殺そうとしたが、それを察知した大姫は、義高に女装させて逃がしたといわれている。 しかし、義高は・・・ 4月26日、堀親家の郎党藤内光澄によって、武蔵国の入間川河原で殺害された(享年12)。 常楽寺裏山の木曽塚は、義高の首塚と伝えられている。 |
父頼朝によって義高が殺されたと知ると、幼い大姫は病の床に臥し、水も口にできないほど衰弱したという。 (義高を婿としたのは6歳のときだったといわれている。) このような娘の姿を見た母政子は、頼朝に迫って義高を討った藤内光澄を梟首させている。 しかし、大姫の精神的なショックは大きく・・・。 1186年(文治2年)には、勝長寿院に参籠させ病気回復を祈願させたが効果はなかった。 このとき大姫は、静御前の噂を耳し、その舞を見せてもらっている(参考:静の舞)。 1195年(建久6年)、入内のはたらきかけをするため、父頼朝に従って上洛したが、入内を拒否しつつ、1197年(建久8年)7月14日死去。 遺体は勝長寿院に葬られたと考えられるが定かではない。 |
常楽寺には、大姫の塚と伝わる姫宮塚がある(参考:木曽塚)。 |
清水八幡宮は、木曽義仲の嫡男で清水冠者と呼ばれていた義高を祀る社。 首を取られた義高の遺体は、里人によって入間河原に葬られ、北条政子が供養をし、義高を祀る社が建てられたのだという。 |
頼朝は、1194年(建久5年)、木曽義高との悲恋が原因で病となった大姫の治癒祈願のため、霊山寺(日向薬師)を参詣し「大太鼓」を納めたといわれている。 |
大姫の病気治癒祈願・日向薬師 大姫入内の夢 |
岩船地蔵堂は、大姫の妹乙姫(三幡)の墳墓堂ではないかという説もある。 事実、そういう伝承もあるらしく、木造地蔵尊の胎内銘札にも息女と書いてあるのみで大姫とは書かれていないらしい。 乙姫(三幡)の乳母夫は、中原親能で、亀ヶ谷に屋敷があったものと推定されている。 『吾妻鏡』には、 「姫君を親能の亀谷堂の傍らに葬った」 と記されている(1199年(正治元年))。 また、1199年(正治元年)5月、乙姫(三幡)が病気にかかったときに、京都から呼び寄せられた名医丹波時長が最初に滞在してのが、亀ヶ谷の中原親能の邸だったと記されていることから、この周辺に親能の屋敷があったことが推定できる(参考:畠山重忠邸跡址)。 現在、この辺りは扇ヶ谷という地名だが、鎌倉時代には亀ヶ谷が一般的な呼び名であった。 |
亀ヶ谷坂 |
武蔵大路 |
武蔵大路は、鶴岡八幡宮の赤橋(太鼓橋)から亀ヶ谷、仮粧坂を経て武蔵に向かう道だった。 |
鎌倉でもあった仇討〜亀ヶ谷の仇討〜(okadoのブログ) |
鎌倉市扇ガ谷3丁目3 鎌倉駅西口より徒歩15分 |
海蔵寺は、殺生石の伝説でも知られる心昭空外(源翁禅師)よって開かれた寺。 本尊の薬師如来は、鎌倉十三仏に数えられている。 |
鎌倉市扇ガ谷4−18−8 0467(22)3175 鎌倉駅西口より徒歩20分 |
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