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鶴岡八幡宮の太鼓橋は、1182年(寿永元年)に源平池が造営されたときに架けられたものと考えられている。 将軍家が鶴岡八幡宮を参拝するときは、この橋で輿を下乗したのだという。 当時は朱塗りの板橋であったことから、「赤橋」(あかはし・あかばし)と呼ばれていた。 鎌倉の古絵図にも「赤橋」と記されている。 北条氏の庶流「赤橋流」の苗字は、この太鼓橋(赤橋)の近くに屋敷があったことに由来している。 赤橋流北条氏は最後の執権となった守時を出している(参考:洲崎古戦場)。 |
太鼓橋の両側にも橋が架けられているが、当初は左側の橋のみだった。 太鼓橋の左側の池は「平家池」。 「平家を踏みつぶす」という意味で架けられた橋ともいわれ、「新橋」と呼ぶらしい。 右側の橋は大正か、昭和の初めに架けられたのだという。 |
『吾妻鏡』によると、1213年(建保3年)の和田合戦時には、和田方の土屋義清が流れ矢に当たって討死。 義清は岡崎義実の子。 御所へ向かっていた義清は、鶴岡八幡宮の神の矢を受けたのだと伝えられ、壽福寺に葬られたのだという。 |
『吾妻鏡』が伝える和田合戦 土屋義清は鶴岡八幡宮の神矢に討たれた! |
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太鼓橋は、1923年(大正12年)の関東大震災によって全壊したため、1927年(昭和2年)に架け替えられた。 橋脚、橋桁は鉄筋コンクリート製、橋床版、欄干は石製、擬宝珠は青銅製。 「太鼓橋」は、地上の人と天上の神とを結ぶ架け橋で「反り橋」とも呼ばれる。 太鼓橋は、30度の勾配がある。 弓状に反って架けられているのは、虹に例えられているからといわれている。 「鶴岡八幡宮の太鼓橋」は、「かながわの橋100選」に選ばれている。 |
1591年(天正19年)、豊臣秀吉が作らせた「鶴岡八幡宮修営目論見絵図」(鶴岡八幡宮指図)による模型(鶴岡文庫に展示)。 |
鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)に源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して創建した鶴岡若宮を前身とし、1180年(治承4年)に源頼朝が現在地に遷した。 以後、武家の都「鎌倉」の中心に置かれ、長く武家の崇敬を集めた。 |
鎌倉市雪ノ下2−1−31 0467(22)0315 鎌倉駅東口より徒歩10分 |
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