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由比若宮は、1063年(康平6年)8月、河内源氏二代棟梁の源頼義が前九年の役の勝利に感謝するため、源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を由比郷に勧請して創建した社。 1081年(永保元年)2月には、頼義の子義家が社殿を修復している。 1180年(治承4年)10月7日、鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を遥拝。 10月12日には、由比郷から小林郷北山に遷座し、現在の鶴岡八幡宮が造営された。 授けられる「破魔矢」は、源頼義が創建時に石清水八幡宮から賜った破魔弓と破魔矢を奉納したことにちなむものという。 |
応神天皇・比売神・神功皇后 |
由比若宮の傍らにある井戸の名は「石清水ノ井」。 |
石清水八幡宮 |
石清水井 |
石清水八幡宮は、京都の裏鬼門を守護神として創建され、源氏は氏神として崇敬した。 男山に湧き出す清水を神として祀ったことが起こりと伝えられている。 |
源氏(河内源氏)が坂東進出に成功した要因の一つに、1028年(長元元年)に起こった「平忠常の乱」を源頼信が鎮圧したことがあげられる。 朝廷は当初、忠常の征圧には平直方を起用したが、のちに、直方を更迭して頼信を起用した。 (※更迭された直方も頼信に従って忠常の制圧に向っている。) この直方の子孫といわれるのが、源頼朝を担ぎあげ、武家政権を創り上げる立役者となった北条時政ともいわれている。 「平忠常の乱」後、頼信の子頼義の武勇に感じ入った直方は、娘を嫁がせ、鎌倉の大蔵邸を寄進している。 ここから、源氏と鎌倉の繋がりが出来上がり、鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となった。 |
のちに、頼義の子義家が、関東武士団を率いて「後三年の役」を平定。 朝廷には私闘と判断されて恩賞が与えられなかったが、義家は自らの私財をはたいて家来へ恩賞を与え、「武神」と崇められたのだという。 |
川越八幡宮は、源頼信が平忠常の乱の戦勝に感謝して創建した社と伝えられている。 |
鎌倉と源氏:源氏ゆかりの地を本拠とした頼朝 |
甘縄神明神社 |
八幡太郎義家氏神 |
源頼義は、甘縄神明神社に祈願しての嫡男の義家を授かったのだという。 |
義家の子の代になると一族間での争いもあり、源氏はその勢いを失っていく。 一方で着実に勢力を伸ばしたのが、「平忠常の乱」以降、源氏に従うのを嫌った伊勢平氏。 源氏は、義朝の代でその勢力を取り戻しつつあったが、1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れ、尾張国野間で討死。 嫡男頼朝は伊豆国の蛭ヶ小島に流された。 それから20年後の1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たした頼朝は、源氏と深い繋がりのある鎌倉を本拠として武家の都を創り上げた。 |
壺井八幡宮 (河内源氏の氏神) |
源氏三代の墓 (頼信・頼義・義家) |
誉田八幡宮 (源頼朝寄進の神輿) |
鶴嶺八幡宮 (茅ヶ崎市) |
今戸神社 (浅草) |
茅ヶ崎の鶴嶺八幡宮は、1030年(長元3年)に源頼義が懐島八幡宮を創建したことに始まるのだと伝えられ、由比若宮は懐島八幡宮を勧請して創建されたとも伝えられている。 浅草の今戸神社は、源頼義が由比若宮と同時期に石清水八幡宮を勧請して創建したと伝えられる社。 |
鶴岡八幡宮は、源頼朝が由比若宮を遷して造営された。 |
頼朝の鶴岡八幡宮創建 鶴岡八幡宮の歴史(年表) |
小説家、芥川龍之介は、塚本文と結婚し、元八幡横に居を構えた。 『或阿呆の一生』に次のように描いている。 「彼等の家は東京から汽車でもたっぷり一時間かかる或海岸の町にあったから」 |
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