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木曽義高は、木曽義仲の子。 「清水(志水)冠者」とも呼ばれる。 1183年(寿永2年)3月、源頼朝と木曽義仲の武力衝突の際、義仲が子義高を鎌倉に人質として差し出すことで和議が成立し、義高は、頼朝の娘大姫の許嫁という名目で鎌倉に送られてきた。 のちに頼朝の御家人となり、「弓馬四天王」と称された海野幸氏と望月重隆が義高に従っていたという。 その後、木曽義仲は京を攻め、平家を西国に追い出し入京したが、後白河法皇の要請によって頼朝が義仲追討の兵を派遣。 1184年(寿永3年)正月20日、義仲は源範頼と源義経に討ち取られた。 そして、4月、頼朝は義高を誅殺するよう命を下す。 これを知った大姫は、義高を逃がすのだが・・・ 大姫の願いは叶わず、義高は武蔵国の入間川で討ち取られた(1184年(寿永3年)4月26日 享年12)。 |
義仲寺は、義仲が葬られた地に建てられたのだという。 |
巴塚は義仲の妾といわれる巴御前の供養塔。 義高の母は巴御前という説も。 |
頼朝が義高を誅殺することを女房らによって内々に知らされた大姫は、4月21日夜明け前、義高に女装をさせ、大姫の女房たちが義高を囲んで屋敷から出した。 隠してあった馬の蹄には真綿が巻かれ、蹄の音を人に聞かれないようにしてあったのだという。 義高の寝床には、海野幸氏が臥し、日が昇ると、双六をして義高がいるふりをしていたが、晩になってばれてしまう。 怒った頼朝が幸氏を捕らえ、堀親家に義高を見つけ出して討ち取るよう命じると、大姫は、あわてふためき、魂が消えてしまうほどだったという。 |
それから5日後の4月26日、堀親家の郎党藤内光澄が鎌倉に戻り、義高を入間河原で誅殺したことを報告。 大姫は嘆き悲しみ、水も喉を通らない状態になると、心中を察した母の北条政子も義高の死を嘆き悲しみ、御所中の多くの男女が悲しみにひたったのだとか。 その後も大姫は病の床についたままで、病状は日毎に重くなっていく。 |
義高の誅殺から2ヵ月後の6月27日、政子の憤りによって義高を討った藤内光澄が梟首された。 その理由は・・・ 「大姫の病気は義高が殺されたことが原因。 したがって、藤内光澄のせいである。 命令であったとしても、なぜ内々に詳しい事情を大姫に知らせなかったのか・・・」 というもの。 政子に追及されて言い逃れできなかった頼朝は、光澄を梟首するよう命じたのだという。 |
常楽寺裏山にある木曽塚は、義高の首塚と伝えられている。 |
清水八幡宮は、木曽義仲の嫡男で清水冠者と呼ばれていた義高を祀る社。 首を取られた義高の遺体は、里人によって入間河原に葬られ、北条政子が供養をし、義高を祀る社が建てられたのだという。 |
影隠地蔵は、源頼朝の追手から逃れる木曽義高が、一時的に身を隠したという地蔵尊。 |
毎年5月のゴールデンウィーク期間中に入間川の河川敷には、義高の供養と子供たちの健康と成長を祈念して鯉のぼりが掲揚される。 |
平清盛に助けられた源頼朝は、自らの体験から、討ち取った武将の子は生かしてはおけないという考えが強かったと思われる。 のちに、弟義経の子も生まれるとすぐに殺させている(参考:静の舞)。 |
義高が殺されて病気となった大姫は、以後それが癒えることはなかったという。 1195年(建久6年)、源頼朝は東大寺の大仏殿落慶供養に参列するために上洛するが、その際には大姫も伴っていた。 大姫を入内させるためである。 しかし、義高の事件以降病弱だった大姫は1197年(建久8年)に亡くなった。 |
岩船地蔵堂に祀られている石造地蔵像は、大姫の守本尊と伝えられている。 常楽寺裏山にある「姫塚」は、北条泰時の娘の墓と伝わるが、一説には大姫の墓ではないかとも伝わる。 |
木曽義高の誅殺と大姫(okadoのブログ) |
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