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常楽寺の裏山(粟船山)には、木曽義高の墓と伝わる塚がある。 もともとは、ここから離れた木曽免と呼ばれていた田の中にあって、五輪塔が建てられていたが、1680年(延宝8年)、土地の所有者石井次左衛門が塚を掘ってみると青磁の骨壺が出てきた。 「これは義高の骨だ」ということになり、常楽寺の裏山に葬ったと伝えられている。 木曽義高(清水冠者)は、木曽義仲の嫡男。 1183年(寿永2年)に挙兵した木曽義仲は、源頼朝と対立したが、長男義高を人質として差し出すことで和睦。 義高は、名目上、頼朝の長女・大姫の婿ということで鎌倉に送られてきている。 しかし、頼朝は・・・ 1184年(寿永3年)正月20日、源範頼・源義経らが義仲を討つと、4月26日、鎌倉の義高をも誅殺した。 |
※ | 義高が鎌倉へ人質として送られる際に随行したのが、のちに弓馬四天王と呼ばれる海野幸氏と望月重隆だった。 |
志田義弘の反抗と木曽義仲との対立 |
塚周辺は「木曽免」と呼ばれていたが、これは義高にちなんで「貢税が免ぜられていた」ことによるといわれている。 |
常楽寺裏山(粟船山)の中腹(木曽塚の下)には姫宮の祠がある。 北条泰時の娘の墓とされているが、一説には大姫の墓であるとも・・・。 |
亀ヶ谷坂の入口にある岩船地蔵堂の石造地蔵尊は、大姫の守本尊と伝えられている。 |
義仲寺 |
木曽義仲の墓 |
1184年(寿永3年)正月20日、木曽義高の父義仲は、源範頼と源義経に攻められ、近江国で最期を遂げた。 |
粟津の戦い:木曽義仲と今井兼平の最期 |
清水八幡宮は、木曽義仲の嫡男で清水冠者と呼ばれていた義高を祀る社。 首を取られた義高の遺体は、里人によって入間河原に葬られ、北条政子が供養をし、義高を祀る社が建てられたのだという。 |
影隠地蔵は、源頼朝の追手から逃れる木曽義高が、一時的に身を隠したという地蔵尊。 |
毎年5月のゴールデンウィーク期間中、入間川の河川敷には義高の供養と子供たちの健康と成長を祈念して鯉のぼりが掲揚される。 |
木曽塚にも、毎年、鯉のぼりが飾られているようです。 義高の鯉のぼりと同じような願いが込められているのかも。 |
大姫の病気治癒祈願・日向薬師 大姫入内の夢 |
常楽寺は、建長寺の根本といわれてる寺。 1月の「文殊祭」では、開山蘭渓道隆が宋より持参したという秘仏の文殊菩薩像が開帳される。 |
鎌倉市大船5−8−29 0467(46)5735 大船駅又は北鎌倉駅から徒歩20分 |
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