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源頼朝と北条政子の次女・三幡は1186年(文治2年)の生まれといわれている。 三幡は字名で、通称は「乙姫」。 晩年の頼朝は、長女・大姫の入内を進めていたが、大姫が亡くなってしまったことから、三幡の入内の準備を始める。 しかし、頼朝は三幡の入内を待たずに1199年(建久10年)正月13日に亡くなってしまう。 このころは『吾妻鏡』が欠落しているので、詳しいことは不明。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1199年(建久10年)3月5日、以前より発熱していた三幡が重病となったため、政子は諸社に祈願し、諸寺に読経させている。 御所では一字金輪法が修され、頼朝の異母弟・阿野全成が奉仕。 しかし、日毎にやつれていったため、京都で名医として知られた丹波時長に往診してもらおうとするが・・・ 時長に固辞されてしまったため、3月12日に京都へ使いを上らせ、それでも固辞するようなら、後鳥羽上皇の耳に入れるように在京の御家人に命じている。 何度も辞退していた時長だったが、4月に後鳥羽上皇から早く関東へ下るよう命じられ、5月6日、鎌倉に到着。 宿泊所などの事は、大江広元と八田知家が命じられた。 5月7日、時長は、三幡の乳母夫中原親能の亀ケ谷の屋敷から南御門の畠山重忠の屋敷に移る。 5月8日、三幡に朱砂丸を処方。 診察料金は砂金二十両。 5月13日、北条時政が時長を接待。 以後、三浦義澄・三浦義連・八田知家・梶原景時以下の御家人が毎日時長を接待するよう決められた。 5月27日夕刻、三幡が少しの食事をして、皆が喜んでいたのだが・・・ 6月14日には衰弱。 12日から目の上が腫れていたのだという。 驚いた時長は、 「今となっては快復の見込みはなく、とても人の力の及ぶ状態ではありません」 と言ったのだとか。 6月25日、京都にいた中原親能が三幡の病状を聞いて帰還。 6月26日、時長が源頼家の屋敷から帰洛。 馬五頭が与えられ、旅の食糧などを運ぶ人夫20人、役人2人、護衛の兵が付けられた。 大江広元も馬を贈っている。 時長は、もっと早く帰りたかったのだが、中原親能の鎌倉到着を待っていたため、この日になってしまったのだという。 6月30日正午頃、三幡が死去(享年14)。 母の政子をはじめ、多くの者が悲しみ、乳母夫の中原親能は出家。 午後8時頃、三幡の亡骸は中原親能の亀谷堂に埋葬された。 北条義時、大江広元、小山朝政、三浦義澄、結城朝光、八田知家、畠山重忠、足立遠元、梶原景時、宇都宮頼綱、佐々木盛季、二階堂行光らが供をしたのだという。 7月6日、亀谷墳墓堂で仏事が催され、政子が渡御。 導師は鶴岡八幡宮別当の尊暁。 |
岩船地蔵堂の石造地蔵尊は、大姫の守本尊と伝えられているが、石造地蔵尊の前に置かれている木造地蔵尊の胎内銘札には「源頼朝の息女の守本尊」と書かれているのみだったのだという。 三幡の亡骸は中原親能の亀谷堂に埋葬されたということで、三幡の墳墓堂ではないかという説もある。 |
三幡の乳母を務めたのは、中原親能の妻・亀谷禅尼。 禅尼は剃髪後に石山寺に住して宝塔院を建立。 大日如来の胎内に頼朝の髪を収めて日々勤行したのだという。 |
石山寺の東大門・鐘楼・多宝塔は頼朝の寄進と伝えられている。 |
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