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二階堂行政は、藤原南家乙麻呂流・工藤行遠の子。 母は熱田神宮大宮司藤原季範の妹。 永福寺(二階堂)の近くに住んだことで二階堂氏を称した。 |
※ | 源頼朝の母由良御前は藤原季範の娘。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1184年(元暦元年)8月24日、幕府に新たに設置される公文所(のちの政所)の上棟式を三善康信(善信)と担当。 同年10月6日の公文所の吉書始では、大江広元が別当に任じられ、行政は、中原親能・足立遠元・中原秋家・藤原邦通らとともに寄人(よりゅうど)に任じられている。 1191年(建久2年)1月15日の政所の吉書始では、次官(令)に就任。 1199(建久10年)1月13日に頼朝が死去すると、20日には頼家が家督を相続するが、4月12日には頼家の訴訟親裁が停止され、宿老13人による合議制によることが決定されると行政もその一人に加わった。 生誕年・死没年ともに不明。 |
1192年(建久3年)9月12日、小山朝政に対して下野国日向野郷地頭職を補任した下文。 将軍家政所下 下野國日向野郷住人 補任地頭職事 左衛門尉朝政 右壽永二年八月 日御下文云以件 人補任彼職者今依仰成賜政所 下文之状如件以下 建久三年九月十二日案主藤井(花押) 令民部少丞藤原(花押) 知家事中原(花押) 別当前因幡守中原朝臣(花押) 前下総守源朝臣 案主藤井は藤井俊長・令民部少丞藤原は二階堂行政・知家事中原は中原光家・別当前因幡守中原朝臣は大江広元のこと。 |
所領安堵の政所下文と頼朝の下文 |
永福寺は、1192年(建久3年)、源頼朝が奥州平泉の寺院を模して創建。 廃寺となってしまったが、本堂の二階堂の名は現在も地名として残されている。 『吾妻鏡』によると1192年(建久3年)9月11日、永福寺の建設工事の様子を見るため、二階堂行政の屋敷に泊まっている。 1327年(嘉暦2年)に夢窓疎石を招いて開かれた二階堂の瑞泉寺は、行政の子孫・貞藤が建てた瑞泉院を始まりとする寺。 |
1218年(建保6年)12月、行政の次男行光が政所執事に就任。 行光の後は、甥の伊賀光宗が就任するが、光宗が1224年(元仁元年)の伊賀氏の変で流罪となった後、行光の子行盛が就任。 以後、二階堂氏は政所執事を世襲する。 |
※ | 伊賀光宗は北条義時の後妻伊賀の方の兄弟。 父は伊賀朝光、母は二階堂行政の娘。 |
戦国時代、美濃国の斎藤道三や織田信長が居城とた岐阜城(稲葉山城)には、「行政が築いた砦を始まり」とするという伝承があるらしい。 |
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