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1224年(貞応3年)6月、二代執権北条義時が亡くなると、北条政子は義時の嫡子泰時を執権とした。 しかし、伊賀光宗と義時の後妻伊賀の方(光宗の妹)が、政村(義時の五男、母は伊賀の方)を執権にし、娘婿の一条実雅を将軍に据えようと企てた。 『吾妻鏡』によると・・・ 閏7月3日、伊賀光宗と伊賀の方の謀反が発覚。 北条時房と大江広元も出席して、北条政子の御前で処分が下された。 義時の後妻・伊賀の方と兄の伊賀光宗は流罪。 実雅は身柄を京都へ移し、朝廷に裁きを任せる事に。 その他は、たとえ味方して仲間に入っていたという疑いがあっても、罪を問わないこととされた。 その後・・・ 23日、一条実雅が京都へ出発。 29日、伊賀光宗の政所執事を解任し、領地52か所を没収。 光宗は、妻の叔父・二階堂行村に預けられた。 8月16日、一条実雅が京都に到着。 29日、北条政子の命により伊賀の方が伊豆国北条郷に幽閉され、伊賀光宗は信濃国へ流罪。 弟の朝行と光重は九州へ流罪。 10月10日、一条実雅が越前国へ流罪と決定。 |
光宗らは、政村の烏帽子親である三浦義村と語らい、将軍藤原(九条)頼経を廃し、泰時を討つ計画をたてたが、これを察知した北条政子は自ら義村邸に赴き、義村を諫めている。 |
北条泰時の執権就任と伊賀氏の変と三浦義村 |
一条実雅は公卿で、三代将軍源実朝が暗殺されたときに随従しており、姉の孫藤原(九条)頼経が四代将軍となったため、そのまま鎌倉に残って頼経を補佐していた。 4年後、流刑先で変死を遂げたといわれている。 |
北条政村への処罰はなく、政村は、のちに七代執権に就任し、八代執権の時宗のときには連署を務めている。 |
鎌倉の防衛の要衝である常盤には、北条政村の別邸があった。 |
伊賀氏の変は、伊賀氏を潰すために北条政子がでっちあげたとする説がある。 北条氏の代替わりによって自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後妻の実家・伊賀氏を潰すためというもの。 伊賀の方は、伊豆国へ追放された4ヵ月後の12月24日、鎌倉に危篤となったことが知らせれていることから、その後間もなく死去したものと考えられるが・・・ 兄の光宗は、政子死後の1225年(嘉禄元年)12月22日に許されて所領も回復されている。 |
北條寺の義時夫妻の墓は、北条政子の画策に乗らず、伊賀氏の謀反を否定していたという北条泰時が建てたもの。 |
北条義時の最期(吾妻鏡) 北条義時は毒殺されたのか? 北条泰時の執権就任と伊賀氏の変と三浦義村 北条政子の前に現れた伊賀の方の怨霊 |
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