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源頼朝が興した武家政権を拡大・発展させた北条義時は、1224年(元仁元年)6月12日突如発病し、翌日死去。 『吾妻鏡』には、「念仏を唱えつつ順次往生をとげた」と記されているが、古くから「近習の小侍に刺し殺された」などの暗殺説があったのだとか・・・ 北条義時の最期(吾妻鏡) |
義時の死後すぐに起こった事件が伊賀氏の変。 義時の後継者は誰もが嫡男の泰時であると考えていたところだが・・・ 義時の後妻伊賀の方が兄伊賀光宗とはかって、実子の政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に据えようとする陰謀が発覚した。 この陰謀には三浦義村もかかわっていたが、北条政子が義村を説得したことにより陰謀は失敗に終わり、伊賀の方・光宗・実雅は流罪に処せられて落着している。 さて・・・ 義時は「後妻伊賀の方に毒殺された」という説がある。 藤原定家の日記によると・・・ 承久の乱の首謀者の一人で、乱後姿をくらましていた尊長が3年後に捕えられて 六波羅探題に引き立てられた。 尊長は、 「早く首を切れ。 さもなければ、義時の妻が義時に飲ませた薬で早く俺を殺せ」 と叫んで驚かせたのだとか・・・ 「義時の妻」というのはもちろん伊賀の方のこと。 伊賀氏が将軍に据えようと考えた娘婿の一条実雅は、尊長の実弟だったといわれ、尊長は実雅から義時毒殺の秘密を聞いていたのかもしれない・・・。 それとも、尊長も伊賀氏の陰謀事件に関わっていたのか・・・? |
三代執権に就任した泰時は、伊賀の方の謀反を否定している。 北條寺の義時と伊賀の方の墓は泰時が建てたもの。 |
北条泰時の執権就任と伊賀氏の変と三浦義村 |
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