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『吾妻鏡』によると・・・ 1224年(貞應3年)6月12日辰の刻(午前8時頃)、調子の悪い日が続いていたが、格別の変化は見られなかったという北条義時が重病となる。 陰陽師が呼ばれて占うと、大事には至らず、戌の刻(午後8時頃)には快復に向かうとのことだった。 念のため、祈祷が行われたが・・・ 時とともに危険な状態になり、6月13日寅の刻(午前4時頃)に出家、巳の刻(午前10時頃)に亡くなった(62歳)。 日ごろから脚気を患っていたところに、暑さによって体調を崩してしまったのが原因なのだという。 死を悟った義時は、前日の朝から念仏を唱え続け、最期の時は、鶴岡八幡宮の頼暁を師として、外縛印を結び、念仏を数十遍唱えたのだという。 葬儀は6月18日に営まれ、源頼朝の法華堂の東の山上が墳墓とされた。 6月19日、初七日、導師は頼暁。 6月22日、三浦義村主催の臨時の法事、導師は走湯権現の浄蓮房(源延) 6月26日、二七日、導師は大進僧都観基。 7月4日、三七日、導師は信濃法眼道禅。 7月11日、四七日、退耕行勇。 7月16日、五七日、導師は左大臣律師。 7月23日、六七日、導師は退耕行勇。 7月30日、七七日、弁僧正定豪。 8月8日、墳墓堂の供養。 導師は走湯権現の浄蓮房(源延)で、墳墓堂は「新法華堂」と称されたのだという。 |
2005年(平成17年)、源頼朝墓東隣の山の中腹から北条義時のものと考えられる法華堂跡が発掘された。 法華堂の供養を行った走湯権現の浄蓮房は、源頼朝に仕えた加藤景員の子とされ、頼朝が師事した覚淵や加藤景廉の兄弟ともいわれる。 |
義時の死後、伊賀光宗と後妻伊賀の方(光宗の妹)が、政村(義時の五男、母は伊賀の方)を執権にし、娘婿の一条実雅を将軍に据えようと企て、流罪となっている(伊賀氏の変)。 義時は伊賀の方に暗殺されたという噂までとんでいたというが、一方で伊賀氏の謀反は北条政子のでっちあげという説もある。 北条義時は毒殺されたのか? |
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