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北条氏は伊豆国の豪族。 伊豆に流されていた源頼朝が北条時政の娘政子と結婚したことで、一族は頼朝の挙兵に協力し、鎌倉幕府創設に尽力。 頼朝亡き後は、有力御家人を滅ぼし幕府の実権を握った。 初代執権となった時政は、将軍源実朝への謀反を企て伊豆国追放となっている。 鎌倉北条九代 |
北条義時の時代には、梶原景時・阿野全成・比企能員・畠山重忠・和田義盛が滅亡し、二代将軍源頼家・三代将軍源実朝が暗殺された。 後鳥羽上皇が義時追討を企てたが、勝利して三上皇を配流している。 |
法華堂跡 |
覚園寺 |
1224年(貞応3年)6月13日に亡くなった義時は、源頼朝の法華堂の東の山上に葬られ、新法華堂と呼ばれていたのだという。 覚園寺は、義時が建てた大倉薬師堂を前身とし、源実朝暗殺時に義時を救ったという戌神の伝説が残されている。 |
釈迦堂 |
大倉幕府 |
釈迦堂は廃寺となっているが、本尊だった清凉寺式釈迦は杉本寺に安置された後、東京目黒の大円寺に移されたという説が・・・。 大円寺の清凉寺式釈迦如来は最古で国の重要文化財に指定されている。 |
上宮(本宮) (鶴岡八幡宮) |
今宮(新宮) (鶴岡八幡宮) |
源実朝が暗殺された日、義時は鶴岡八幡宮の楼門の前に大倉薬師堂(覚園寺)の戌神将が白い犬に姿を変えて現れたことで命を救われたのだという。 鶴岡八幡宮の今宮は、承久の乱で配流となった後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇を祀る社。 |
比企邸跡 (妙本寺) |
義時の正妻は、比企朝宗の娘姫の前。 |
三代執権北条泰時は、連署や評定衆の設置し、武家の法典「御成敗式目」(貞永式目)を制定し、北条執権体制の基礎を固めた。 その一方で、和賀江嶋を築港し、巨福呂坂や朝夷奈切通を開いた。 墓所は常楽寺。 |
常楽寺 |
北条泰時墓 (常楽寺) |
成就院 |
和賀江嶋 |
朝夷奈切通 |
巨福呂坂 |
宇津宮辻子幕府 |
若宮大路幕府 |
泰時は、源頼朝以来の大倉幕府を宇津宮辻子に移し、さらに若宮大路に移した。 |
四代執権北条経時の時代は、将軍藤原(九条)頼経が実権を掌握しようとするなど反執権の勢力が盛り上がりをみせていた。 経時は、将軍頼経を下ろし、頼経の子頼嗣を五代将軍とすることに成功したが、心労が重なり病に倒れ、執権職を弟の時頼に譲った。 墓所は光明寺。 |
光明寺 |
北条経時墓 (光明寺) |
蓮華寺跡 |
五代執権北条時頼は、前将軍頼経を鎌倉から追放し、反執権勢力を一掃した。 さらに有力御家人三浦泰村を滅ぼすとともに、将軍頼嗣を追放し、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王を擁立した。 時頼の時代より、執権政治は「得宗専制政治」へと変化する。 裁判のさらなる迅速化のため、評定衆の下に引付を設置。 |
建長寺 |
国宝「梵鐘」 (建長寺) |
時頼が建長寺を創建して以降、山ノ内(北鎌倉)には禅寺が建ち並ぶようになる。 山ノ内は、北条義時が和田合戦で手に入れて以降、北条得宗家の所領として管理されてきた。 |
鎌倉大仏 |
北条時頼廟 (明月院) |
時頼の時代には大仏の鋳造が始まった。 墓所は明月院(最明寺跡)。 |
極楽寺 |
浄光明寺 |
北条重時は義時の子で六波羅探題・連署を務めた。極楽寺は重時が建てた念仏堂を前身としている。 北条長時は重時の子で六代執権を務めた。浄光明寺は長時が再興した。 |
北条氏常盤亭跡 |
蛇苦止明神 (妙本寺) |
北条政村は義時の子で七代執権を務めた。 妙本寺の蛇苦止明神には、政村の娘にとりついた比企能員の娘の伝説が残されている。 |
産湯の井 (甘縄神明神社) |
元使塚 (常立寺) |
北条時宗は、五代執権北条時頼の子として甘縄の第で誕生。 中継ぎの執権だった六代長時、七代政村を経て八代執権となった。 時宗の時代には二度にわたる元の襲来があった(元寇)。 その間兄時輔の誅殺や元の使節杜世忠らを殺害するなど激動の中を生きた。 |
円覚寺 |
佛日庵 |
宋の禅僧無学祖元を招き円覚寺を建立。 墓所は円覚寺塔頭佛日庵。 |
国宝「洪鐘」 (円覚寺) |
東慶寺 |
九代執権北条貞時は八代執権北条時宗の嫡男。 貞時の時代には、内管領の平頼綱が勢力をのばし、有力御家人安達泰盛が滅ぼされるが、貞時は頼綱を誅殺し、執権体制(得宗専制政治)を整える。 円覚寺の国宝「洪鐘」は貞時の寄進。 東慶寺は貞時の建立、開山は母の覚山尼。 墓所は円覚寺塔頭佛日庵。 |
2023年10月29日、2020年から延期となっていた洪鐘祭が開催された。 |
浄智寺 |
北条師時は八代執権北条時宗の同母弟宗政の子、十代執権。 浄智寺は宗政の菩提を弔うために創建された。 |
阿弥陀三尊 (浄光明寺) |
北条守時の墓 (浄光明寺) |
北条久時は六代執権北条長時の孫。浄光明寺の阿弥陀如来像は久時の発願によって造立された。 北条守時は久時の子、鎌倉幕府最後の執権(十六代)。新田義貞率いる討幕軍と洲崎で戦い自刃した。 |
洲崎古戦場跡 |
陣出の泣塔 |
東勝寺跡 |
宝戒寺 |
北条高時は九代執権北条貞時の子。 新田義貞に攻められ東勝寺で一族とともに自刃(鎌倉幕府滅亡)。 宝戒寺は、北条一族の菩提を弔うために建立された寺。 |
徳祟大権現堂 (宝戒寺) |
徳祟大権現堂には、北条高時像が安置されている。 |
称名寺 |
称名寺は、金沢北条氏の祖北条実時が建てた持仏堂がはじまりとされる。 |
北条政子は、伊豆国の豪族北条時政の娘。 伊豆の流人源頼朝と結婚し、鎌倉では御台所として頼朝を支えた。 子で二代将軍頼家・三代将軍実朝が相次いで暗殺されると、四代将軍として京都から迎えられた藤原(九条)頼経の後見となり尼将軍と称された。 |
壽福寺 |
五輪塔 (壽福寺) |
壽福寺と安養院は、政子の創建と伝えられる。 |
安養院 |
宝篋印塔 (安養院) |
勝長寿院跡 |
大倉幕府 |
1225年(嘉禄元年)7月11日死去した政子は勝長寿院で荼毘に付された。 |
源頼朝が武家の都の中心に据えた鶴岡八幡宮は、北条氏からも崇敬された。 |
旗上弁財天社 |
政子石 |
鶴岡八幡宮の源氏池の島にある旗上弁財天社は、北条政子の創建ともいわれている。 社殿裏に置かれている政子石は、夫婦円満と子宝の祈願石。 |
鎌倉幕府の草創のはじめ、北条時政は江の島に参籠したのだという。 その時、龍神が落としていった3つの鱗を北条の家紋としたのだとか(ミツウロコ(三つ鱗))。 |
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建立された宝戒寺は、執権館跡に建てられた。 |
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