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1232年(貞永元年)、三代執権北条泰時によって武家の法典「御成敗式目」が制定された。 全51条からなるもので、51条という数は17の3倍で、聖徳太子の憲法17条に由来する数という。 源頼朝以来、鎌倉幕府には、このような法が制定されておらず、「道理」や「先例」に基づく裁判が行われてきたが、幕府の勢力が大きくなるに連れて、土地争いなどの揉め事が多くなってきた。 そこで、制定されたのが「御成敗式目」(貞永式目)である。 「御成敗式目」は、室町幕府の「建武式目」をはじめ、戦国時代、江戸時代を通じて武家の法の基本となった。 「御成敗式目」の制定時期と、「寛喜の大飢饉」の時期が重なっていることから、飢饉の影響を受けているとの説もある。 また、泰時が承久の乱後に帰依した栂尾高山寺の明恵の思想が強く影響しているとも言われる。 |
北条泰時と栂尾高山寺の明恵 |
北条泰時は、1221年(承久3年)の承久の乱後、六波羅探題北方として京都に駐留していたが、1224年(元仁元年)、父義時が急死したため、鎌倉に戻り執権に就任。 翌1225年(嘉禄元年)6月10日、源頼朝の時代から幕府を支えてきた大江広元が亡くなり、その1ヶ月後の7月11日には、北条政子がこの世を去った。 この2人の死は泰時にとって大きな打撃だったと思われるが、それを機に幕政改革に乗り出した。 まず連署を設置して叔父の北条時房を迎え(複数執権制)、次に幕府の最高議決機関としての評定衆を設置して三浦義村ら11名を任命(幕府政治の合議制)。 そして、執権・連署と評定衆が中心となって、「御成敗式目」の制定へと準備が進められていった。 『吾妻鏡』によると、 泰時は、執権就任間もない頃から、毎朝、古代の律令に目を通すことを日課としていたのだという。 泰時の時代には、承久の乱の勝利によって幕府の支配領域が拡大した一方で、公家と武士あるいは御家人同士の所領争いも増えていた。 これまでは、源頼朝以来の先例によって所領紛争を裁決していたが、それも限界に達し、裁決の判断基準が必要となっていた。 1232年(貞永元年)5月14日、「御成敗式目」の制定に着手。 式目の起草を太田康連に命じ、法橋円全に執筆させている。 それから3ヶ月後の8月10日、鎌倉幕府の基本法となる「御成敗式目」が公布され、この日以後の裁許は、この法に基づいて行われるよう定められた。 『吾妻鏡』には、大宝律令は「海内の亀鏡」、式目は「関東の鴻宝」と記されている。 なお、制定日については、政道について連署・評定衆11名に起請文を提出させている7月10日という説がある。 |
北条泰時が「御成敗式目」を制定した後、六波羅探題の弟重時に送った書状(泰時消息文)には、「御成敗式目」の精神と目的が書かれていたという。 |
○ | 裁判が当事者の地位によって左右されるなどということがないように、公平な裁判を行うための基準となる法で、無学の御家人らにもそれを周知徹底し、法の無知によって罪に陥れられることのないようにすることが目的である。 |
○ | 武家社会の道徳規範たる道理に基づいて定められているもので、公家社会の律令、格式を変更するものではない。 |
前書 |
新法不遡及の原則 |
1条・2条 |
神社・仏寺の修理と祭祀、仏事の励行 |
3条・4条 |
守護の職務・警察権限 |
御成敗式目によって守護の権限が成文化されている。 守護の権限は、 @大番催促(おおばんさいそく)、 A謀反人の逮捕、 B殺害人の逮捕。 大番催促とは、鎌倉の警護に当たる御家人の振り分け。 |
5条 |
地頭の年貢滞納の処分 |
6条 |
幕府と朝廷・本所との裁判管轄 |
7条・8条 |
不易の法と知行年紀法 |
源頼朝、頼家、実朝の源氏三代と北条政子の時代に、幕府から与えられた所領は、旧知行者が訴訟を起こしても改められない。 |
20年を越えて継続して知行してきた所領は、知行するに至った事情の如何を問わず、知行権を保証する。 |
9条〜15条 |
刑法 |
16条・17条 |
承久の乱の没収地・罪科 |
18条〜27条 |
民事訴訟法 |
親などがいったん譲与した所領を取り戻す権利。 子孫の死後や女子・外戚への譲与にも悔返し権が認められていた。 |
28条〜31条 |
裁判制度・訴訟手続 |
32条〜34条 |
刑法 |
35条〜 |
各種規定 |
御成敗式目〜北条泰時が評定衆に書かせた起請文〜 有罪か無罪か〜神仏に制約する起請文と起請失〜 再婚した後家の所領返還問題と御成敗式目〜新法不遡及の原則〜 北条政子の御教書と御成敗式目〜不易の法〜 北条泰時と栂尾高山寺の明恵 足利尊氏の建武式目 |
「御成敗式目」の制定以後、式目の不備や補充をした「式目追加」あるいは「追加法」と称される法令が発布され、追加された法は750箇条にも及ぶといわれている。 |
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