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『栂尾明恵上人伝記』によると・・・ 1221年(承久3年)の承久の乱の時、栂尾の山中に朝廷軍の多く兵が逃げこんだとういう情報があったため、安達景盛が山中を探索し、明恵を捕えて六波羅に連行。 明恵の徳を聞いていた北条泰時は、驚いて席を退き、明恵を上席に奉った。 景盛は過ちをおかしてしまったと興ざめの様子だったのだという。 この時、明恵が泰時に語ったことは・・・ 「栂尾山は、殺生禁断の地。 鷹に追われた鳥や猟から逃げる獣は、皆この山に隠れて命を繋いでいる。 敵を遁れて隠れている軍士も同じ。 情けもなく追い出せば、敵に捕えられて命を奪われてしまう。 例え、自分が咎めを受けることとなろうとも、そのような事をすることはできない。 私の師である釈尊は、前世で鳩に代って鷹の餌食となり、餓えた虎に身を与えた。 そこまでの情けには及ぶはずもないが、隠してやれるのなら、袖の中にも、袈裟の下にも隠してやろうと思った。 今後も同じである。 この情けが幕府にとって面倒な事であると申すのであれば、即時に愚僧の首を刎ねられよ」 これを聞いた泰時は、頬に感激の涙を流し、事情も知らぬ東国の者が狼藉を働いたことを詫びた。 その後、明恵に帰依した泰時は、六波羅探題在任中に何度も高山寺の明恵を訪れているのだという。 1224年(貞応3年)6月13日、二代執権北条義時が死去すると、泰時は鎌倉に戻って6月28日に三代執権に就任。 泰時は、丹波国の一庄を高山寺に寄進しようとしたが、明恵は、 「寺に所領などがあると僧たちが贅沢になり怠ける」 として断ったのだという。 明恵を捕えてきた安達景盛は、その後出家して明恵の弟子となり大連房覚知と名乗ったのだとか。 |
高山寺は、1206年(建永元年)、明恵が後鳥羽上皇より栂尾の寺域を賜って開いた寺。 1232年(貞永元年)に北条泰時が制定した御成敗式目は、明恵の思想を強く受けていると言われる。 |
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