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「六波羅探題」とは、1221年(承久3年)の承久の乱後、朝廷の動きを監視するため、京都に設置された鎌倉幕府の出先機関。 北条泰時と北条時房をそれぞれ六波羅の北と南に駐留させたのが始まり。 六波羅探題の設置によって、これまでの京都守護は廃されている。 六波羅探題には、北条一族の中でも特に有望視された者が就任し、執権、連署に次ぐ重職で、朝廷の監視のほかに、裁判、京都周辺の治安維持なども行った。 1333年(元弘3年)5月7日、反幕の挙兵をした足利高氏(尊氏)らに攻められて滅亡。 |
六波羅探題在任中、北条泰時は何度も高山寺の明恵を訪れているのだという。 北条泰時と栂尾高山寺の明恵 |
源実朝の暗殺と倒幕を企てた後鳥羽上皇〜承久の乱〜(okadoのブログ) |
北方
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南方
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京都の六波羅蜜寺の境内には、平清盛をはじめとする平家一門の屋敷が建ち並んでいた。 鎌倉幕府が朝廷を監視するために設置した六波羅探題の役所は、平清盛邸を改築したものだったのだという。 |
建仁寺の勅使門は、平教盛の館門(平重盛の館門とも)を移築したものと伝えられる。 |
東福寺の六波羅門は、六波羅探題から移築されたものと伝えられている。 門には、1333年(元弘3年)5月7日に足利高氏(尊氏)が六波羅探題を攻撃した際の矢庇のあとが残されているという。 |
蓮華寺は、六波羅探題を脱出した北条仲時ら140余名が自刃した地。 |
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