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北条時房(ほうじょうときふさ)は、1175年( 安元元年)、北条時政の三男として誕生。 北条政子・北条義時の異母弟。 1189年(文治5年)4月18日、元服。 源頼朝の命により三浦義連が烏帽子親となり、時連(ときつら)と名乗る(1202年(建仁2年)に時房と改名。)。 1199年(建久10年)1月13日、頼朝が死去し、源頼家が家督を相続すると側近として仕えた。 源頼家の近習5人 1203年(建仁3年)9月2日、頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が北条時政の謀略によって滅ぼされ、9月29日には頼家が修禅寺に幽閉されたが、時房は処罰されずに済んでいる。 1205年(元久2年)の畠山重忠の乱に従軍。 乱後、北条時政とその後妻・牧の方による平賀朝雅を将軍に据えようとする企てが発覚。 時政は伊豆国に追放され、京都にいた平賀朝雅は、閏7月26日、追討軍によって討たれた(牧の方の陰謀)。 1207年(建永2年)正月14日、武蔵守に任官。 1213年(建暦3年)の和田合戦に従軍。 1215年(建保3年)1月6日、伊豆国で父時政死去。 1218年(建保6年)、北条政子に随って上洛。 政子の上洛は、子ができない将軍源実朝の跡継ぎについて、朝廷に親王将軍の斡旋を相談するためだった。 この時の上洛で、時房は子の時村とともに後鳥羽上皇の蹴鞠の会に列しているのだという。 1219年(建保7年)1月27日、実朝が甥の公暁に暗殺されると、3月25日、政子の代理として千騎を率いて上洛。 親王将軍を下向させるための交渉が目的だったが、後鳥羽上皇に断られ、7月19日、左大臣九条道家の子三寅(のちの頼経)を連れて帰還した。 北条政子の上洛と将軍継嗣問題 1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発すると、5月22日、北条泰時・北条時氏・足利義氏・三浦義村・千葉胤綱らとともに東海道の大将軍として出陣。 6月15日、時房が瀬田、泰時が宇治を守る朝廷軍を破って入京。 乱後、新たに設置された六波羅探題の南方に就任し、京都に留まった(北方は泰時)。 1224年(貞応3年)6月13日、北条義時が死去すると、6月23日、北条泰時が執権に就任。 6月28日、北条政子は時房を後見役に任命した(連署)。 1225年(嘉禄元年)6月10日に幕府創設に貢献した大江広元が、翌7月11日には北条政子が死去。 以後、執権の北条泰時との協力体制を確立して政務を執った。 1240年(延応2年)1月24日死去(享年66)。 |
『吾妻鏡』によると、時房の元服の儀式は、 大内義信・太田広綱・安田義定・源範頼・北条義時・新田義兼・千葉常胤・三浦義澄・三浦義連・畠山重忠・小山田重成・八田知家・足立遠元・工藤景光・梶原景時・和田義盛・土肥実平・岡崎義実・宇佐美助茂ら、 源家一門と幕府重鎮が参列する盛大なものだった。 『吾妻鏡』には、北条政子が特に可愛がっていたことも記録されている。 この頃、兄の義時が分家して江間を名乗っていることや、元服式が盛大であったことから、北条時政は時房を北条家の後継者とする考えでいたのではないかという説がある。 ただ、時房が元服した年には、時政の後妻牧の方が四男となる政範を産んでいる。 |
江間四郎・江間小四郎と呼ばれた北条義時 北条時房の元服と北条政子が激怒した改名の逸話 |
瀬田橋と宇治橋は京都防衛の要衝地。 1184年(寿永3年)の源頼朝の木曽義仲追討の際には、源範頼が瀬田を、源義経が宇治を攻めて義仲を敗走させている。 承久の乱では、北条時房が瀬田を北条泰時が宇治を攻めて入京した。 |
瀬田の唐橋 |
宇治橋 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 弓矢の道の習わし〜武田信光と小笠原長清〜 瀬田の合戦〜宇都宮頼業の活躍〜 宇治川の戦い |
承久の乱後、朝廷の動きを監視するため、六波羅探題が設置された。 北条泰時と北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留。 六波羅は平清盛をはじめとする平家一門の邸宅があったところで、六波羅蜜寺の周辺。 |
六波羅蜜寺 |
平氏六波羅第・ 六波羅探題府跡碑 |
京都文化博物館特別展「よみがえる承久の乱」 |
連署は、幕府の公文書に執権と連名で署名する者。 『吾妻鏡』によると、北条泰時が執権に就任した1224年(貞応3年)6月28日、北条政子は北条時房を後見役に任命している。 この記述から、連署は政子が設置したものと考えられてきたが、現在では政子の死後に泰時が設置し、時房を任命したとする説が定着している。 |
1239年(延応元年)2月22日、承久の乱で隠岐に流された後鳥羽法皇が崩御。 その年の12月の三浦義村の急死と、翌年1月の時房の急死は、後鳥羽法皇の祟りと噂されたらしい。 承久の乱の際、義村と時房には義時追討の院宣が下されていた。 |
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