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牧の方は、駿河国大岡牧の豪族・牧宗親の娘(妹とも)。 鎌倉幕府の初代執権・北条時政の後妻。 1182年(寿永2年)11月に、北条政子が源頼朝の浮気相手の亀の前の屋敷を打ち壊させた事件では、牧の方が頼朝の浮気を政子に伝えたのだとか。 1205年(元久2年)6月の畠山重忠の乱は、平賀朝雅が畠山重忠・重保父子のことを牧の方に讒言したことから起こったと伝えられている。 京都守護だった平賀朝雅は、新羅三郎義光を祖としする源氏。 牧の方の娘を妻としていた。 |
浮気発覚・政子激怒 源頼朝に褒められた義時 畠山重忠の乱 |
1205年(元久2年)6月、畠山重忠を滅ぼし、武蔵国を手に入れた北条時政だったが・・・ 無実の重忠を追討したことは、その立場を著しく悪くした。 一方で、重忠の無実を言い続けた北条義時への支持が高まり、さらに、尼御台北条政子の存在が大きくなってくると・・・ 時政・牧の方夫妻と政子・義時姉弟との間に確執が生まれることになる。 『吾妻鏡』によると・・・ 1205年(元久2年)閏7月19日、牧の方が将軍源実朝を亡きものにして、娘婿の平賀朝雅を将軍に据えようとしているとの噂が流れる。 政子は、長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野政景らに命じて北条時政邸にいる実朝を迎えに行かせ、北条義時邸に迎え入れた。 すると、時政が召し抱えていた武士たちも悉く義時邸で実朝の警護にあたったのだという。 時政はこの日のうちに出家(68歳)。 翌日、伊豆国北条郷へ下向し、義時が執権となった。 同日、三善康信(善信)や安達景盛らが義時邸に集まり、京都の平賀朝雅を討ち取る相談をし、25日には、京都の御家人に平賀朝雅を討伐することを伝える使者が到着。 そして、26日。 この日、朝雅は後鳥羽上皇の仙洞御所で囲碁を打っていたが、召し使いの少年から追討使のことが伝えられる。 朝雅は、動じることなく座に戻って目数を数えた後で、関東から討手が差し向けられたことを上皇に伝えて、退出の許可を得たのだという。 その後、六角東洞院にある宿舎に戻った朝雅を五条有範・後藤基清・源親長・佐々木広綱・佐々木高重らが襲撃。 朝雅は、しばらくは防戦をしたが、防ぎきれずに逃亡。 金持広親・佐々木盛綱らに追われ松坂(山科)辺りまで辿り着くが、山内持寿丸(後の六郎通基・山内経俊の六男)に射止められた(享年24)。 8月5日には牧の方の兄・大岡時親が出家。 事件の原因を作った牧の方はどうなったのか・・・ 夫の北条時政とともに伊豆へ追放されたようだが、平賀朝雅に嫁いだ娘が公家と再婚すると、娘夫婦を頼って京都で暮らしたのだとか・・・。 |
※ | 慈円の『愚管抄』は、北条政子が三浦義村に相談した結果、時政の伊豆追放につながったと伝えている。 |
※ | 慈円の『愚管抄』は、平賀朝雅は山科で自害したとも伝えている。 |
※ | 大岡時親は畠山重忠討伐で北条義時を説得した人物。 |
六角堂(頂法寺)は、源頼朝も参詣したという観音霊場。 朝雅邸は六角堂付近にあったのだという。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 牧の方の娘を妻としていた宇都宮頼綱にも謀反の疑いがかけられ、小山朝政に追討令が出されている。 朝政は義兄弟である事を理由に追討を断り、頼綱は出家。 北条義時に対面しようと宇都宮を発つが、対面は出来ず、結城朝光を通して髻を届けた。 その後罪を問われなかった頼綱は、熊谷直実の勧めで法然に帰依している。 |
『吾妻鏡』によると、 1215年(建保3年)1月6日8時頃、北条時政は伊豆の北条の地で亡くなった(87歳)。 腫物に悩まされていたのだと伝えられている。 時政の墓がある願成就院は、時政が源頼朝の奥州征伐の戦勝を祈願して建立した寺院。 本尊の阿弥陀如来像をはじめ、毘沙門天・不動明王・矜羯羅童子・制咤迦童子の諸像は、時政が運慶に依頼して造立したもの。 |
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