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鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)の傍らに建つ宝篋印塔は、畠山六郎重保の墓と伝えられ、明徳6年(1393年)の銘のある石塔。 重保は畠山重忠の嫡男。 母は北条時政の娘というのが通説だが、足立遠元の娘とする説もある。 重保の屋敷は、大鳥居の近くにあったと伝えられている。 『吾妻鏡』によると・・・ 1204年(元久元年)、三代将軍源実朝の坊門家息女との縁談が整ったことから、坊門姫を迎え入れるため15人の若武者が京都へ差し向けられた。 畠山重保もその一人に加わっていた。 その折、京都守護の平賀朝雅と重保が喧嘩となり、それを根に持った朝雅が、北条時政に「畠山父子が謀反を企てている」と讒言したことにより、畠山父子は討たれることになる。 1205年(元久2年)6月22日早朝、重保は、由比ヶ浜に謀反人が集結しているとの報を耳にすると、従者3人とともに浜へと向かった。 しかし、待ち構えていた三浦義村の手の者が重保を取り囲み、重保は訳のわからぬまま討ち取られてしまったのだという。 同日、父重忠も北条義時らの軍に攻められ武蔵国二俣川で討死している。 |
畠山重忠公史跡公園 (重忠誕生地・深谷市) |
菅谷館 (嵐山町) |
畠山重忠終焉の地 (横浜市旭区) |
重保の宝篋印塔は「六郎さま」と呼ばれ、せきで苦しむ人たちが願をかけると咳の病気が治ると言い伝えられている。 通称を六郎といった重保が喘息をもっていたことから、このような話となって伝わっているのだという。 願をかける人は、竹の筒にお茶を注いで、これを供えて拝んだといわれ、墓の脇には「六郎茶屋」という茶屋もあった。 |
伝承によると、重保は武蔵国釜利谷郷(現在の横浜市金沢区)に逃れて自害したのだという。 重保の墓の近くには、父の重忠が創建したという東光禅寺がある。 |
若宮大路の歴史散策 段葛〜鶴岡八幡宮の参道〜 |
畠山重保の墓の前には、鶴岡八幡宮の大鳥居が建てられている。 徳川家綱の寄進で御影石で造られた明神鳥居。 |
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