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鶴岡八幡宮から若宮大路を由比ヶ浜へと下ると、御影石で造られた鳥居がある。 この鳥居が鶴岡八幡宮の「一の鳥居」。 1668年(寛文8年)、江戸幕府四代将軍徳川家綱によって寄進された石造明神鳥居。 柱に「寛文八年戊申八月十五日」の刻銘があり、国の重要文化財に指定されている。 高さは約8.5メートル。 二の鳥居と三の鳥居も家綱の寄進によって建て替えられたものだったが、1923年(大正12年)の関東大震災で三つとも倒潰。 1937年(昭和12年)、一の鳥居だけがもとのとおりに再建された。 |
一の鳥居は、1180年(治承4年)に源頼朝が由比若宮(鶴岡若宮)を現在地に遷座したときに創建されたと考えられている。 『吾妻鏡』によると、1241年(仁治2年)4月3日、大地震が発生し、大鳥居内の拝殿が流出したらしい。 この記事により鳥居の下には拝殿があったことがわかる。 |
一の鳥居は浜の大鳥居とも呼ばれていた。 1990年(平成2年)の発掘調査では、現在の一の鳥居の北(鶴岡八幡宮寄り)で柱痕が発見され、戦国時代に北条氏康によって造立された一の鳥居のものである可能性が高いのだという。 頼朝が建てた鳥居も現在の一の鳥居より鶴岡八幡宮よりあったものと考えられている。 |
若宮大路は、1182年(養和2年)に源頼朝が平安京の朱雀大路を模して造営した鶴岡八幡宮の参道。 鶴岡八幡宮の楼門前からは、由比ヶ浜へ一直線に延びる若宮大路と三つの鳥居を望むことができる。 |
段葛は若宮大路の中央に築かれた遺構。 現在の段葛の入口に二の鳥居が、終点に三の鳥居がある。 |
鶴岡八幡宮の三つの鳥居は、今とは逆の数え方をしていた時代があった。 |
一の鳥居の手前、鎌倉女学院横の遺跡。 鎌倉警察の建設のため発掘調査が行われ、鎧や埋蔵銭が発見された。 中世以前の鎧が発掘されることは珍しく、京都の法住寺殿に続いて二例目。 |
中世から戦国時代の遺構〜下馬周辺遺跡〜(okadoのブログ) |
一の鳥居の近くには、畠山重保の屋敷があったとされている。 重保は畠山重忠の嫡子で、北条時政の謀略によって由比ヶ浜で最期を遂げた。 大鳥居の傍らに重保の墓と伝わる宝篋印塔が建てられている。 |
鶴岡八幡宮の大鳥居(一の鳥居)は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の夫人崇源院の願いで、木造の鳥居から石造の鳥居に造り替えられたといわれている。 崇源院は、鶴岡八幡宮の弁財天を信仰し、祈願をして三代将軍となる家光を授かったといわれ、自分の代わりに家光の乳母である春日局を度々参拝させていたのだという。 そんな崇源院の夢の中に鶴岡八幡宮の弁財天が現れ・・・ 「備前国犬島の石を使って木造の鳥居を石造とするように」 というお告げがあった。 しかし、大工事のうえ、遠国から石を運ばなければならなかったことから、四代将軍家綱の代になって完成したのだという。 崇源院は、お江と呼ばれ、織田信長の妹お市の方と浅井長政との間に生まれた子。 豊臣秀吉の側室で秀頼の母となる淀の方は姉にあたる。 娘の千姫は秀頼に嫁いだ。 千姫の養女は東慶寺の第20世の天秀尼。 建長寺の仏殿、唐門(勅使門)、西来庵の中門は、芝増上寺の崇源院の御霊屋にあったものが移築されている。 |
鶴岡八幡宮の旗上弁財天社は、源氏池に浮かぶ島に建てられている。 源頼朝や北条政子ゆかりの社。 |
鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の西の鳥居付近に置かれている巨石は「よじべえ石」と呼ばれ、滑川の河口の沖合に沈んでいた石。 一説によると大鳥居の石材として運ばれてきた石なのだとか・・・ |
鶴岡八幡宮の手水鉢は、大鳥居と同じ備前国犬島の花崗岩を使って掘り出されている。 |
鶴岡八幡宮の造営 鶴岡八幡宮の一の鳥居 鶴岡八幡宮の参道・・・段葛 若宮大路の散策 二の鳥居・三の鳥居と歴史遺産の段葛 |
鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)に源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して創建した鶴岡若宮を前身とし、1180年(治承4年)に源頼朝が現在地に遷した。 以後、武家の都「鎌倉」の中心に置かれ、長く武家の崇敬を集めた。 |
鎌倉市雪ノ下2−1−31 0467(22)0315 鎌倉駅東口より徒歩10分 |
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