|
崇源院(すうげんいん)は、近江国の戦国大名・浅井長政の娘。 母は織田信長の妹・お市の方。 長政の小谷城が落城した1573年(天正元年)の誕生。 小谷城で誕生したとされるが、小谷落城後、岐阜城で誕生したという説もある。 一般的には「お江」(おごう)の名で知られている。 |
1573年(天正元年)、父長政が伯父の信長に敗れ、小谷城で自害すると、母・お市の方とともに岐阜城に移り、信長の保護を受けて育った(諸説ある。)。 1582年(天正10年)、信長が本能寺で横死すると(本能寺の変)、お市の方が越前国北ノ庄の柴田勝家と再婚したことから北ノ庄城に移るが・・・、 翌年、勝家が賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、勝家とお市の方は北ノ庄城で自害。 お江は、二人の姉(茶々・お初)とともに秀吉に保護された。 保護したのは、信長の子・信雄だったとする説もある。 |
北ノ庄城は柴田勝家が築いた城で、安土城に匹敵する日本最大級の城だったのだという。 |
のちに長女の茶々は秀吉の側室となって淀殿と呼ばれ、二女のお初は京極高次に嫁ぎ、三女のお江は徳川秀忠に嫁ぐこととなる。 |
織田信雄の家臣で尾張国知多郡大野領主だった佐治一成のもとへ嫁いだが、小牧・長久手の戦い後、一成が大野を追放されたため離縁。 次に、豊臣秀吉の甥・豊臣秀勝に再嫁。 完子をもうけたが、秀勝は1592年(天正20年)に死去。 そして、1595年(文禄3年)、徳川秀忠に再嫁。 秀忠との間には、千姫・珠姫・勝姫・初姫・家光・忠長・和姫をもうけた。 1626年(寛永3年)9月15日、江戸城西の丸で死去(享年54)。 法名は「崇源院殿昌譽和興仁C大禪定尼」。 次姉の常高院(お初)より先に亡くなった。 長姉の淀殿(茶々)は、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で自害している。 |
お江と離縁させられた佐治一成〜小牧・長久手の戦い〜 |
崇源院は、徳川将軍家の菩提寺・増上寺に埋葬された。 徳川将軍家霊廟に秀忠と崇源院の石塔がある。 |
旧台徳院霊廟惣門は、徳川秀忠の霊廟の惣門だった建物。 秀忠の霊廟の北には、秀忠より先に死去した正室崇源院の霊屋が建てられていたが、秀忠の没後、崇源院は台徳院霊廟に祀られた。 1945年(昭和20年)の東京大空襲で霊廟が焼失した後、土葬されていた遺体は荼毘に付され、徳川将軍家霊廟に改葬されたのだという。 |
1945年(昭和20年)の空襲によって徳川将軍家霊廟の大部分が焼失。 戦後、増上寺周辺は開発が行われ、徳川家の遺物が全国の寺社に譲渡された。 甲州市の恵林寺に譲渡された石棺は、2015年(平成27年)に崇源院(お江)のものであることが判明している。 |
金戒光明寺の宝篋印塔は、崇源院と三代将軍を争った春日局が建立したもので、崇源院の遺髪が納められているのだという。 |
鎌倉の建長寺には、1647年(正保4年)、崇源院の霊屋にあった建物が移築されている。 |
建長寺の仏殿は、旧崇源院御霊屋。 |
方丈勅使門 |
西来庵中門 |
方丈勅使門は旧崇源院御霊屋の中門、西来庵中門は唐門だったのだという。 |
鶴岡八幡宮の大鳥居(一の鳥居)は、崇源院の願いで、木造の鳥居から石造の鳥居に造り替えられたといわれている。 崇源院が信仰していた鶴岡八幡宮の弁財天のお告げがあったのだという。 |
養源院は、崇源院の姉・淀殿が父・浅井長政と祖父・浅井久政らの追善のため建立した寺。 崇源院は、大坂の陣で自害した淀殿と秀頼の供養を営んだのだといわれ、落雷で焼失した養源院を再興したのだという。 養源院の北には、大坂の陣のきっかけとなった方広寺の梵鐘がある。 |
豊臣完子 |
崇源院が徳川秀忠に嫁ぐと、伯母の淀殿の養女となり、九条忠栄に嫁いだ。 その子孫は大正天皇皇后の貞明皇后に連なる。 |
千姫(天樹院) |
1597年(慶長2年)、伏見城で誕生。 1603年(慶長8年)、豊臣秀頼に嫁ぐが、1615年(20年)の大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、翌年、姫路新田藩主・本多忠刻に再嫁。 |
1666年(寛文6年)2月6日に死去した千姫の葬儀は、江戸の伝通院で営まれた。 |
墓所は伝通院のほかに、弘経寺(茨城県常総市)にもあるが、徳川家ゆかりの知恩院にも分骨されたのだという。 |
東慶寺 (鎌倉) |
満徳寺 (太田市) |
鎌倉の東慶寺は、豊臣秀頼の娘で千姫の養女となった天秀尼が住持した寺。 千姫は東慶寺の伽藍を整備している。 徳川発祥の地とされる太田市の満徳寺は、千姫が中興したと伝えられる寺。 どちらも徳川家康に認められた女性救済の縁切寺として栄えた。 |
珠姫(天徳院) |
1599年(慶長4年)、江戸城で誕生。 加賀藩三代藩主・前田利常に嫁ぎ、四代藩主・前田光高を産んだ。 |
勝姫(天崇院) |
1601年(慶長6年)、江戸城で誕生。 越前北荘藩主・松平忠直に嫁いだ。 |
初姫(興安院) |
1602年(慶長7年)、伏見城で誕生(江戸城とも)。 伯母・常高院(崇源院の姉)の養女となり、松江藩主・京極忠高に嫁いだ。 |
徳川家光 |
1604年(慶長9年)、江戸城で誕生。 徳川幕府第三代将軍。 |
徳川忠長 |
1606年(慶長11年)、江戸城で誕生。 駿府藩主となるが改易された。 |
薬王寺は徳川家と縁の深かった寺。 忠長は、1631年(寛永8年)、不行跡を理由に甲府への蟄居を命じられ、翌年改易。 そして、1633年(寛永10年)、幕命により配流地の高崎で自害。 供養塔を建てたのは、忠長の正室・松孝院(織田信長の孫)。 東慶寺の書院は、忠長の屋敷から移築された建物だった・・・ |
徳川和子 |
1607年(慶長12年)、江戸城で誕生。 後水尾天皇の女御として入内し、後に中宮となる。 |
|