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常高院(じょうこういん)は、近江国の戦国大名・浅井長政の娘。 母は織田信長の妹・お市の方。 1570年(永禄13年)、小谷城で誕生。 本名は、浅井初(あざいはつ)。 1573年(天正元年)、長政が信長に敵対して敗れ、小谷城が落城。 長政は自害し、兄の万福丸は処刑されたが、お市の方と姉の茶々・妹のお江とともに救出され、岐阜城に移り、信長の保護を受けた(諸説ある。)。 1582年(天正10年)、信長が本能寺で横死すると(本能寺の変)、お市の方が越前国北ノ庄の柴田勝家と再婚したことから北ノ庄城に移るが・・・ 翌年、勝家が賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、勝家とお市の方は北ノ庄城で自害。 お初は、姉の茶々・妹のお江とともに秀吉に保護された。 保護したのは、信長の子・信雄だったとする説もある。 |
北ノ庄城は柴田勝家が築いた城で、安土城に匹敵する日本最大級の城だったのだという。 |
のちに長女の茶々は秀吉の側室となって淀殿と呼ばれ、二女のお初は京極高次に嫁ぎ、三女のお江は徳川秀忠に嫁ぐこととなる。 |
1587年(天正15年)、京極家の当主で従兄妹の京極高次と結婚。 高次の母・京極マリアは、お初の父・浅井長政の姉。 高次は、1582年(天正10年)の本能寺の変で明智光秀に通じていたことから秀吉の追捕を受け、 お市の方が再嫁した柴田勝家のもとに逃れたが、翌年、勝家とお市の方は北ノ庄城で自害。 その後、秀吉の側室となっていた妹の京極竜子の助命嘆願で許されたのだという。 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで徳川方について功績をあげ、若狭小浜8万5千石を与えられた高次だったが・・・ 1609年(慶長14年)に死去。 お初は出家して常高院を号した。 1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では、豊臣方の代表として徳川方の阿茶局と交渉を進め、和睦を成立させた。 1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で、豊臣秀頼が淀殿とともに自害したことで豊臣家は滅亡。 常高院は、秀頼の娘・奈阿姫の助命を徳川家康に嘆願したともいわれている。 奈阿姫は側室の子で、家康の命によ大坂城から救出された正室・千姫の養女となり、天秀尼と号して鎌倉の東慶寺に入っている。 1633年(寛永10年)、高次の嫡男・京極忠高の江戸屋敷で死去(享年64)。 晩年は徳川秀忠室で妹の崇源院とよく会っていたのだという。 崇源院は、常高院より先の1626年(寛永3年)に死去している。 |
東慶寺は、鎌倉幕府八代執権・北条時宗の正室・覚山尼が開いた寺院。 江戸時代までは尼寺で、千姫の養女となって助命された奈阿姫は、天秀尼と号して東慶寺に入っている。 |
東慶寺に入った天秀尼は、1645年(正保2年)死去(37歳)。 天秀尼の死によって豊臣秀吉の直系は断絶した。 |
養源院は、淀殿が父・浅井長政と祖父・浅井久政らの追善のため建立した寺。 崇源院は、大坂の陣で自害した淀殿と秀頼の供養を営んだのだという。 養源院の北には、大坂の陣のきっかけとなった方広寺の梵鐘がある。 |
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