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安土城(あづちじょう)は、織田信長が天下統一のために琵琶湖東岸に築いた城。 信長の天下布武を象徴する城だった。 1576年(天正4年)、佐和山城主の丹羽長秀を総奉行として着工され、3年後には五層七重(地上6階地下1階)の天守閣を持つ城がほぼ完成。 本拠を岐阜城から安土城にした理由には、越後の上杉謙信対策や北陸の一向一揆対策などの説ある。 1582年(天正10年)の本能寺の変後には焼失。 その後、信長の嫡孫の秀信が入城するなど、織田家の居城として存続したが、1585年(天正13年)に廃城となった。 |
1582年(天正10年)3月、甲州征伐で武田勝頼を滅ぼした信長は、4月21日に帰還。 5月15日には、明智光秀を饗応役として徳川家康の接待が行われた。 甲州征伐で信長に内通した穴山梅雪も同行していたが・・・ まもなく光秀が謀反。 6月2日、京都の本能寺にいた信長は光秀に攻められ自刃(本能寺の変)。 信長の勧めで京都や堺を遊覧していた家康は、伊賀越えで三河の岡崎城に逃れている。 ただ、穴山梅雪は、宇治田原で一揆の襲撃にあい殺害された(諸説ある(享年42)。)。 |
富士山見物をしながら帰還した織田信長〜甲州征伐〜 安土饗応〜織田信長・徳川家康・明智光秀と本能寺の変〜 |
信長は、5月4日、官職に就くこと勧める正親町天皇の勅使の来訪をうけている。 この時、どのような話になったのか詳細はわからないが、朝廷は光秀に信長を討つよう密命を下していたという説がある。 |
三職推任と織田信長〜将軍・大臣・関白・本能寺の変〜 |
本格的な天守(天主)を持つ城は、安土城が始まりといわれる。 各層が朱・青・白など異なる色で塗られ最上層は金色、内部は狩野永徳が描いた墨絵で飾られた部屋や金碧極彩色で仕上げた部屋があったのだという。 信長はここに起居していたらしい。 |
1583年(天正11年)に羽柴秀吉が二の丸に築いたもので、信長の太刀・烏帽子・直垂などの遺品を埋葬したのだという。 |
信雄は信長の次男。 二の丸跡の下にある信雄・二代高長・三代長頼・四代信武の供養塔は、松山藩織田家の菩提寺・徳源寺にあった墓を移したもの。 本能寺の変後、安土城に放火したのは信雄だったという説がある。 |
ハ見寺は、信長が城郭内に創建した寺。 |
ハ見寺の本堂跡からは西の湖が望める。 その先が琵琶湖。 信長が岐阜城から安土城に移った理由として、「京都に近い」そして「琵琶湖の水運を掌握できる」という利点があげられる・・・ |
安土城の山腹には徳川家康・羽柴秀吉・前田利家などの家臣の屋敷が並んでいた。 |
近江八幡市安土町下豊浦 JR琵琶湖線 「安土駅」下車 徒歩25分 |
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