中世歴史めぐり

徳川氏発祥の地 松平氏発祥の地
家康生誕地 東照宮

徳川家康



安土饗応
〜信長・家康・光秀と本能寺の変〜

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 1582年(天正10年)5月15日、徳川家康甲州征伐で駿河国を加増された礼のため織田信長の安土城を訪問。

 武田を離反した穴山梅雪も随行。

 信長は、明智光秀に接待役を命じ、家康の労をねぎらうための饗応の席を設けている(安土饗応)。

 家康が宿にしたのは光秀の屋敷で、光秀の接待は15日から17日まで続けられたのだという。



安土城跡
リンクボタン安土城跡
(近江八幡市)

 安土城は、織田信長が天下統一のために琵琶湖東岸に築いた城。

 甲州征伐を終えた信長は、富士山を見物しながら4月21日に帰還。

 家康らが訪問する前の5月4日、信長に官職を勧めるための勅使の来訪もあった。 


リンクボタン富士山見物をしながら帰還した織田信長〜甲州征伐〜

リンクボタン三職推任と織田信長〜将軍・大臣・関白・本能寺の変〜



甲州征伐





〜光秀が用意した饗応膳〜

 光秀は、興福寺に調度品の貸し出しを依頼し、京都・堺などから珍しい食物を集め、接待に臨んだのだという。

 興福寺は日本酒を献上しているのだとか。





〜光秀は信長に叱責された?〜

 光秀の家康接待に関しては・・・


信長に接待について相談した光秀が、信長の意見に口答えしたため足蹴された。

心を尽くしたもてなしに対して、信長は「やりすぎである」と叱責した。

用意した生魚が傷んでいたことから、気分を害した信長は、家康の宿を堀秀政の屋敷に移し、光秀を接待役から解任した。


 といったことが語られている。

 そのため、光秀は信長を深く恨んだといわれ、2週間後に起こる本能寺の変の原因といわれてきた。

 ただ、近年では否定的な見解がなされている。









〜秀吉の援軍に向かった光秀〜

 5月17日、家康を接待中の安土城に備中の高松城を攻めていた羽柴秀吉からの援軍要請がある。

 信長は自ら出陣することを決定。

 家康の接待役を解任された光秀が、信長の出陣に先んじて援軍に向かっている。





〜ハ見寺での能〜

 5月19日、ハ見寺では能の鑑賞が行われた。

 この時、信長は猿楽を演じた梅若大夫があまりに不出来だったため折檻したのだと伝えられている。

 ただ、「出し惜しみしている」と言われること気にして、黄金10枚の褒美を与えたのだとか・・・。



ハ見寺
リンクボタンハ見寺

 ハ見寺は、信長が安土城の郭内に創建した寺。





〜本能寺の変〜

 5月21日、徳川家康穴山梅雪が京都へ向けて出発。

 信長の勧めで京や堺を遊覧するためだったのだという。

 そして、5月29日、信長は安土城の留守衆に出陣の準備をして待機するように命じ、小姓衆30人ほどを率いて上洛し、本能寺に逗留。

 6月2日未明、明智軍に本能寺を包囲されて自刃。

 二条殿では信長の嫡男信忠も自刃している。

 信忠は、秀吉援軍のため妙覚寺に逗留していたが、家康一行が上洛すると清水寺の能観賞や堺にも同行していた。

 信長の上洛を知って妙覚寺に戻った信忠は、6月1日、本能寺で信長と最後の酒を酌み交わしていたのだと伝えられている。

 本能寺の変が起こった時、堺を遊覧していた家康は、伊賀越えで三河の岡崎城に辿り着いている。

 随行していた穴山梅雪は、宇治田原で一揆の襲撃に遭い殺害された(諸説ある)。

 その後、光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れているが・・・

 家康を接待した後、秀吉援軍のために出陣した光秀に何があったのだろう・・・

 光秀の実妹(あるいは義妹)で信長の側室だったといわれる御ツマキの死が遠因となったという説がある。

 御ツマキは、信長と光秀の仲をとりもってくれていた女性だったのだという・・・




本能寺の変


伊賀越え










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