織田信長と征夷大将軍・太政大臣・関白と本能寺の変 |
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長篠の戦い後の1575年(天正3年)11月4日、織田信長は権大納言に任じられ、11月7日には右近衛大将を兼任。 これは、1190年(建久元年)に源頼朝が上洛した際に任じられた役職と同じで、頼朝の先例に倣ったものといわれている。 1577年(天正5年)11月20日には、武家としては源実朝以来の右大臣に任官。 しかし、翌年には右大臣と右近衛大将を辞している。 嫡男の信忠に官職を譲るつもりでいたようだが、実現はしなかったらしい。 |
源頼朝上洛:権大納言・右近衛大将 昇進を重ねた源実朝 |
その後、信長は官職に就いていないが・・・ 甲州征伐後の1582年(天正10年)4月、征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官するという話があったのだという。 この構想は、京都所司代の村井貞勝と武家伝奏の勧修寺晴豊との間で話し合われたことと伝えられているが・・・ 朝廷側からの提案なのか、信長側からの提案なのかは不明。 同年5月4日、官職に就くこと勧める正親町天皇の勅使が安土城を訪問。 しかし、信長は何の回答もしないまま、6月2日、滞在していた本能寺を明智軍に包囲され自刃してしまった(本能寺の変)。 |
任官は朝廷側から提案で、信長は「いずれの官職も断った」という説がある。 その理由は・・・ |
〇 | 朝廷との距離を置くため |
〇 | 右近衛大将に任じられたことで十分だった |
〇 | 天皇の譲位が認められなかった |
「右近衛大将で十分だった」とする説は・・・ 右近衛大将は、常置の武官としては最高の地位。 源頼朝がそうであったように、右近衛大将の地位にあったということで「武家の棟梁」であることを天下に示すことができている。 「朝廷との距離を置く」という説は・・・ 任官するということは、天皇を頂点とする朝廷の一員になること。 しかし、すでに政権を樹立させ、独自の支配力を強めていた信長にとって「朝廷の一員になる必要はなかった」という見方もできる。 信長の本心はどうだったのだろうか。 そして、この任官問題と明智光秀の謀反とは関係あるのだろうか・・・ 朝廷は光秀に「任官を断り独自路線を進む信長を討つよう密命を下していた」という説もある。 |
安土城を訪れた勧修寺晴豊は、甲州征伐によって関東も制圧した信長に将軍を勧めていたのだという。 |
勧修寺家は、藤原北家高藤流。 高藤の次男定方が勧修寺を建立したことから勧修寺流と呼ばれるようになった。 室町時代に関東管領を世襲した上杉氏の祖・重房は勧修寺清房の次男。 |
正親町天皇の勅使が安土城を訪れた後、信長は徳川家康と穴山梅雪の訪問を受け、明智光秀に接待役を命じいる。 |
安土饗応〜織田信長・徳川家康・明智光秀と本能寺の変〜 |
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