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「木造上杉重房坐像」(国重文:鎌倉国宝館に寄託)は、烏帽子狩衣姿の俗体武士姿の肖像彫刻。 鎌倉時代のもので寄木造。 像高68.2p。 |
上杉重房は、藤原姓の公家だったが、幕府から上杉荘(京都)を賜って「上杉」と改姓した。 1252年(建長4年)4月1日、六代将軍宗尊親王が鎌倉に下向する際、親王に従って下向。 1266年(文永3年)に宗尊親王が鎌倉を追放された後も鎌倉に留まり、武士として鎌倉幕府に仕えるようになり、足利氏と婚姻関係を結び、その地位を確立していく。 娘は足利頼氏に嫁いで足利家時を産み、孫清子は足利貞氏に嫁いで足利尊氏・直義の兄弟を生んだ。 のちに足利尊氏が室町幕府を開き、鎌倉に子義詮が置かれると足利家中で権勢を得ていた上杉憲顕(重房の曾孫)が執事となり義詮を補佐している。 やがて、義詮に代わって基氏が鎌倉に入り「鎌倉公方」となると、その補佐役の関東管領に憲顕が就任し、以後、関東管領の地位は上杉家が世襲した。 |
重房は、藤原清房(勧修寺清房)の次男。 先祖は藤原北家の高藤で、高藤の次男定方が勧修寺を建立したことから、高藤の流れを汲む家系は勧修寺流と呼ばれている。 |
山内上杉家 扇谷上杉家 犬懸上杉家 宅間上杉家 |
禅興寺を中興した上杉憲方は憲顕の子で、足利氏満に仕え法号を「明月院」といった。 明月院は、八代執権北条時宗が蘭渓道隆を招いて開いた禅興寺の支院。 |
上杉重房と関東管領上杉氏(okadoのブログ) |
明月院は、八代執権北条時宗が蘭渓道隆を招いて開いた「禅興寺」の支院。 境内には、五代執権北条時頼の廟所がある。 鎌倉の「紫陽花寺」。 |
鎌倉市山ノ内189 0467(24)3437 JR北鎌倉駅より徒歩10分 |
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