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犬懸上杉家の屋敷跡。 犬懸上杉家は、憲藤からはじまる上杉氏緒家の一つ。憲藤の屋敷が犬懸ヶ谷にあったことからそう呼ばれる。 上杉氏は、1252年(建長4年)、第六代将軍宗尊親王が鎌倉に下向する際に、公家であった上杉重房が親王に従って下向してきたのがそのはじまり。 憲藤の子朝宗は、関東管領として、鎌倉公方の足利氏満、満兼に仕えた。 朝宗の跡を継いだ氏憲(禅秀)は、足利持氏のときに関東管領に就任している。 |
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※ | 犬懸上杉家の祖憲藤は山内上杉家の憲顕の弟。 |
山内上杉家 扇谷上杉家 |
上杉重房と関東管領上杉氏(okadoのブログ) |
1416年(応永23年)、上杉禅秀(氏憲)は、足利持氏と対立。 上杉禅秀の乱を起こして敗れ、翌年、鶴岡八幡宮の別当坊に籠もって自刃した。 これによって、山内上杉家、扇谷上杉家とともに勢いのあった犬懸上杉家は没落する。 禅秀が自刃した後、その子持房、教朝らは京に逃れて将軍に仕え、のちの永享の乱や享徳の乱で幕府軍として参戦している。 教朝は、のちに堀越公方となる足利政知に従って関東執事となった。 |
藤沢の遊行寺には、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、1419年(応永25年)、「敵御方供養塔」が建立されている。 |
上杉禅秀邸のあった地は「犬懸ヶ谷」と呼ばれる。 釈迦堂ヶ谷の東にある谷で、杉本寺門前の滑川に架かる犬懸橋を渡ったところ。 邸跡碑は田楽辻子と交差するところに建てられている。 「犬懸」は、狩りの際に犬が駆け回っていたという事に由来するといわれる。 また、衣張山の麓にあることから「きぬかけがやつ」と呼ばれたこともあったらしい。 |
「田楽辻子のみち」は、滑川に架かる大御堂橋の文覚上人屋敷跡から報国寺へ至る道。 |
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