|
足利基氏が鎌倉公方となって以降、氏満、満兼、持氏がその職を受け継いできた。 しかし、基氏の子氏満は、三代将軍義満に反抗し、次の満兼(氏満も子)も義満に反抗の態度を示し、その都度、関東管領の説得で事なきをえている。 四代目の持氏は、四代将軍義持が亡くなると将軍の地位を望んで行動を起こしたが、報われることがなく、それが将軍家への反発という態度に現れていくことになる。 将軍家では、四代義持が引退し、五代にはその子義量がなったが在職2年で没したので、再び義持が将軍になっていた。 六代将軍には、義持の弟の義教がなっている。 |
1438年(永享10年)、持氏は、子の賢王丸の元服にあたり、本来は、将軍義教の「教」の字を賜るところを勝手に「義久」と改め、鶴岡八幡宮の社前で元服式を行った。 足利将軍家では、「義」の字を使用するのは、将軍など特別な者にだけ許されることであったという。 持氏は、このことを諫めた関東管領上杉憲実と対立することとなり、憲実が鎌倉を逃れると追討軍を派遣した。 憲実は将軍義教に訴えて救援を願うと、以前より持氏をよく思っていなかった義教は、上杉持房(上杉禅秀の子)に持氏追討を命じた。 続いて、今川範忠にも持氏追討の命が下されたことにより、持氏は敗れ、幕府に恭順の意を表し称名寺で出家した。 その後、持氏は永安寺に移されるが義教は持氏を許そうとはせず、憲実に自害させるよう命を下したため、1439年(永享11年)2月10日、持氏は永安寺で自害した。 持氏の嫡子義久も報国寺で自刃している。 |
※ | 持氏追討を命じられた上杉持房は、上杉禅秀の乱後、将軍義教に匿われていた。 様々な面で、将軍家と鎌倉公方家が対立していたことがわかる。 |
鶴岡において 大勝金剛尊等身造立の意趣は 武運長久 子孫繁栄 現当二世安楽のため 殊には呪詛の怨敵を未兆に攘い 関東の重任を億年に荷なわんがため これを造立し奉る也 永享六年三月十八日 従三位行左兵衛督源朝臣持氏 造立の間の奉行 上椙左衛門大夫 |
持氏は、1434年(永享6年)、鶴岡八幡宮に血を混ぜて書いた願文を奉納している。 その中の「呪詛怨敵」とは、将軍義教のことだといわれている。 この願文は鶴岡八幡宮宝物殿に「血書願文」として残されている。 |
別願寺の供養塔の四方には鳥居の浮き彫りが施されている。 別願寺は足利氏代々の菩提寺だった。 |
報国寺のやぐらには、持氏の嫡男義久も葬られているのだという。 |
春王と安王は、持氏の遺児。 永享の乱後、下野国の日光山に潜んでいたが、1440年(永享12年)、結城氏朝に担ぎ出された結城合戦で捕らえられ、京都に送られる途中の関ヶ原で処刑された。 |
|