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別願寺は、鎌倉公方代々の菩提寺であり、鎌倉での時宗の中心として栄えた寺。 もとは真言宗の寺で能成寺といったが、1282年(弘安5年)、住職だった公忍が一遍に帰依し、名を覚阿と改め時宗に改宗した。 同時に寺の名を別願寺とした。 境内には、室町幕府に対して「永享の乱」を起こした足利持氏(四代鎌倉公方)のものとされる供養塔(宝塔)がある。 この供養塔には、持氏の怒りを鎮めるため、四方に鳥居の浮彫りが施されている。 大正期には作家広津和郎が下宿していた。 現在の本堂は、2022年(令和4年)の再建。 |
鎌倉観音巡礼第13番札所 (魚籃観世音) |
開山 | 覚阿公忍 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
別願寺は、鎌倉公方・・・足利基氏・氏満・満兼の菩提寺。 |
室町時代、鎌倉には鎌倉公方が置かれ、その補佐役として関東管領が置かれていた。 四代足利持氏は鎌倉公方の権力を増強するため、室町幕府から自立的な行動を起こし、室町幕府と対立しはじめた。 1438年(永享10年)、六代将軍足利義教は、持氏が関東管領上杉憲実と対立したのを機に持氏討伐に動き出した。 これにより持氏は敗れ永安寺で自刃(永享の乱)。 持氏の嫡子義久は、報国寺で自害。 永享の乱後、下野国の日光山に潜んでいた春王・安王も1440年(永享12年)の結城合戦で捕らえられ、京都に送られる途中の関ヶ原で処刑されている。 永享の乱後、しばらく中絶していた鎌倉公方には、持氏の子成氏が就いたが、対立する関東管領上杉憲忠を暗殺したことから、室町幕府が成氏討伐を決め、駿河守今川範忠を派遣し成氏を鎌倉から追い出した(享徳の乱)。 成氏は古河に逃れ「古河公方」と呼ばれるようになる。 やがて京都では「応仁の乱」が起こり、戦国時代へと突入するが、鎌倉はそれ以前に戦乱の世となっていたのである。 |
境内の一夜菜稲荷は、佐助稲荷の化身が現れ、疫病を平癒させたという伝説の稲荷神。 |
フジ |
ハクモクレン |
鎌倉市大町1−11−4 0467(22)8501 鎌倉駅東口より徒歩12分 |
時宗総本山遊行寺(清浄光寺) 鎌倉の時宗の寺 |
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