鎌倉手帳(寺社散策)

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日光山輪王寺
〜世界遺産:日光の社寺〜


編集:yoritomo-japan.com








輪王寺三仏殿
三仏堂
(本堂)


 輪王寺(りんのうじ)は、766年(天平神護2年)に下野国の僧・勝道(しょうどう)が建立した紫雲立寺(のちに四本龍寺に改めた)を始まりとする寺院。

 勝道は、翌年、四本龍寺の隣接地に男体山(補陀落山・二荒山)の神を祀る祠を建てた。

 これが日光二荒山神社の始まりとなる。

 810年(弘仁元年)、嵯峨天皇より満願寺の寺号を賜り、848年(嘉祥元年)には比叡山の円仁が来山したことで天台宗寺院となる。

 三仏堂・常行堂・法華堂は円仁の創建と伝えられる。

 鎌倉時代には源頼朝源実朝が信仰し、室町時代には関東の一大霊場へと発展。

 頼朝が父義朝の菩提を弔うために創建した鎌倉の勝長寿院の別当は、日光山の座主が兼務する時代が長く続いた。

 戦国時代、日光の衆徒が後北条氏に加勢したことで、豊臣秀吉に領地を没収されて一時衰退するが、江戸時代に天台宗の僧・天海によって徳川家康を祀る東照社(日光東照宮)が創建されると江戸幕府の庇護を受けて再び繁栄した。

 1655年(明暦元年)には、後水尾上皇より「輪王寺」の寺号が下賜され、第三皇子の守澄法親王が入寺。

 以後、法親王が住持することとなり「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称されるようになる。

 輪王寺宮は、上野の東叡山寛永寺比叡山延暦寺の貫主も兼務した。

 戊辰戦争後の1869年(明治2年)には、輪王寺の寺号は没収され満願寺に戻されるが、1883年(明治15年)に輪王寺を寺号とすることが許されている。

 山号は日光山。

 本尊は阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音。





〜日光山〜

 勝道が開いた輪王寺・二荒山神社徳川家康の廟所として開かれた東照宮の寺社群は、江戸時代まで日光山と呼ばれていた。

 山内の103棟の建造物と、これらをとりまく遺跡は、世界文化遺産に登録されている。


日光二荒山神社
リンクボタン二荒山神社
日光東照宮
リンクボタン東照宮





神橋
リンクボタン神橋

 伝説によると、幼少の頃、虚空蔵菩薩のお告げを受けた勝道は、補陀落山(男体山)を目指すが大谷川を渡れずにいた。

 すると、深沙大王が現れて、二匹の蛇を投げて橋とし、勝道の渡河を助けてくれたのだという。

 その橋が日光社寺群の入口にある重要文化財の神橋


四本龍寺
四本龍寺旧跡

 大谷川を渡った勝道は、東の空に紫雲が立ち昇るのを見たのだという。

 その地に建てられたのが千手観音を安置した紫雲立寺(しうんりゅうじ)。

 紫雲立寺は、のちに四本龍寺(しほんりゅうじ)と改められた。

 四本龍寺が現在の輪王寺。









〜日光山と源氏〜

 平安時代末は、寺院と武士団との関係が深まった時代。

 1156年(保元元年)、源義朝は日光山造営の功により下野守に任ぜられている。

 1176年(安元元年)には、十七世禅雲と十八世隆宣とによる座主争奪によって山内に兵火がおよび混乱が生じるが、日光山を重視していた源頼朝は、1182年(寿永元年)、寛伝を十九世座主に就任させて混乱を鎮め、源氏との関係を深めたのだという。

 『吾妻鏡』によると、1186年(文治2年9月30日、頼朝は下野寒河郡内の田地十五町を日光山三昧田として常行堂に寄進している。

 参考までに、寛伝は頼朝の母由良御前の出身である熱田神宮の大宮司家の出身で、頼朝の従兄なのだという。

 隆宣は源実朝が師事した二十四世弁覚の兄で、1191年(建久2年)に鶴岡八幡宮の供僧に補されている。


瀧山寺
リンクボタン瀧山寺
(岡崎市)

 瀧山寺は、寛伝が住持した寺。

 聖観音菩薩及び両脇侍〈梵天・帝釈天〉像は、1201年(正治3年)、寛伝が頼朝の三回忌に運慶とその長男湛慶に造立させたものと伝えられている。





四本龍寺三重塔
リンクボタン四本龍寺三重塔


 三重塔は、1241年(仁治2年)に二十四世弁覚(べんかく)が源実朝の菩提のために創建したのだという。

 『吾妻鑑』によると、弁覚は、1213年(建保元年)の和田義盛の反乱(和田合戦)に馳せ参じ、同年、畠山重忠の末子重慶の誅殺にも関わっている。


リンクボタン和田合戦で活躍した日光山の弁覚〜源実朝の護持僧〜

リンクボタン謀反を企てて誅殺された畠山重忠の子・重慶





輪王寺常行堂
リンクボタン常行堂


 常行堂は、848年(嘉祥元年)、円仁が比叡山延暦寺「にない堂」に模して建立。

 『吾妻鏡』によると、源頼朝は下野寒河郡内の田地十五町を日光山三昧田として常行堂に寄進している。

 『常行堂施入帳』によると、源頼朝源実朝は念珠を寄進しているのだという。





輪王寺大猷院
リンクボタン大猷院


 大猷院は徳川三代将軍家光公の廟所。

 家光は、遺言により寛永寺で葬儀が行われ、輪王寺に葬られた。





〜輪王寺宮〜

 1655年(明暦元年)、後水尾上皇の第三皇子の守澄法親王が入寺し、日光山の貫主となった。

 以後、法親王が住持することとなり「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称されるようになる。

 歴代の輪王寺宮は、東叡山(上野寛永寺)・比叡山(延暦寺)の貫主を兼ねたことから「三山管領宮」とも呼ばれていた。

 参考までに・・・

 五代輪王寺宮の公弁法親王は、後西天皇第六皇子。

 1702年(元禄15年)の赤穂事件では、五代将軍・徳川綱吉に赤穂浪士に切腹を命ずる決断を促したされる。

 露座だった上野大仏の大仏殿を建立し、深大寺の蕎麦を有名にしたことで知られる。

 輪王寺宮は、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式だったのだという。


寛永寺
リンクボタン寛永寺
延暦寺
リンクボタン延暦寺









歴史めぐり源頼朝




輪王寺
輪王寺

栃木県日光市山内2300

JR日光駅・東武日光駅から徒歩約30分



日光山
輪王寺・二荒山神社・東照宮

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