和田合戦で活躍した日光山の弁覚〜源実朝の護持僧〜 |
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『吾妻鏡』によると・・・ 1213年(建暦3年)5月10日、日光山の弁覚が褒賞として鎮西土黒庄を手に入れた。 5月3日、弟子らを率いて和田義盛の反乱(和田合戦)に駆け付け、大町大路で中山行重を退けた功績によるもの。 源実朝は、 「僧徒の身でありながら戦場へ赴いたことは、忠節の表れだ」 とし、北条義時を通じて感謝の言葉を伝えた。 すると弁覚は、 「将軍様の長寿のための祈祷をしておりますので、呪いや祟りなどもその力で防いでおります。 姿形のある敵などには罰を与えるのみ」 と申し上げたのだとか。 |
輪王寺 |
二荒山神社 |
『吾妻鏡』に記録されている「日光山」は、日光の神仏混淆の寺社群で輪王寺と二荒山神社。 江戸時代には、徳川家康を祀る東照宮も加わった。 |
四本龍寺(輪王寺)の三重塔は、1241年(仁治2年)に実朝の菩提のために日光山二十四世の弁覚が創建したのだという。 和田合戦の年、畠山重忠の末子重慶が日光山麓に籠もっているのを幕府に通報したのは弁覚だった。 |
和田合戦の先陣を言い争った波多野忠綱と三浦義村 和田合戦の褒賞を固辞した北条泰時 謀反を企てて誅殺された畠山重忠の子・重慶 |
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