和田合戦の先陣を言い争った波多野忠綱と三浦義村 |
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『吾妻鏡』によると・・・ 1213年(建暦3年)5月4日、非難していた法華堂から東の御所(北条政子の御所)に移った将軍源実朝は、西御門で和田合戦で怪我をさせられた者と対面(およそ188人)。 合戦の調査・確認を行なった。 次に、勲功の大小を尋ねるのだが、波多野忠綱と三浦義村の主張に食い違いが・・・ 忠綱は「米町と政所前での先陣」を主張し、義村は「米町の事については異論はないが政所前の合戦では自分が先陣」と主張して言い争いを始めてしまう。 北条義時は忠綱を呼び寄せて 「この度の合戦での勝利は、義村が和田義盛を裏切ったことが大きい。 穏便に事を済ませてくれれば破格の褒賞は疑いない」 と諭すのだが、 忠綱は 「武士が戦場に向かうときは先陣を目指すもの。 弓馬に携わる者として一時の褒賞に心を奪われ、先々までの名誉を汚すことはできない」 と反論するので、将軍実朝の御前で真実を明らかにすることに。 義時・大江広元・二階堂行光が控える中、まず義村が 「義盛が襲来した時、義村は政所前を南に馳せ向い、矢を放ちましたが、塵一つとしてその前を飛んでいく物はありませんでした」 と主張。 すると忠綱は 「忠綱一人が先陣を切りました。 義村は我が子の経朝・朝定の後陣でした。 にも拘わらず、忠綱を見ていないとは、盲目なのでは」 と主張するので、合戦に参加した戦士たちから話を聞くことに。 その話によると・・・ 先陣を切ったのは「赤皮威の鎧を着用し、葦毛馬に乗馬した者」だったのだという。 それは忠綱のこと。 葦毛馬は義時から拝領したもので「片淵」と呼ばれていたのだとか。 しかし・・・ 5月7日、忠綱の手柄については疑いのないところだが、褒賞については義村を盲目扱いしたため、子の経朝へ行われている。 |
和田合戦で活躍した日光山の弁覚〜源実朝の護持僧〜 和田合戦の褒賞を固辞した北条泰時 |
1219年(建保7年)正月27日、鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺された源実朝の首は、三浦義村の家臣・武常晴が拾い上げ、波多野の地に葬ったのだと伝えられている。 常晴は、和田合戦で和田義盛に味方して討死にした武義国の子。 義村と仲の悪い波多野忠綱を頼って実朝の首を波多野へ運んだのだという。 |
波多野氏は、平安時代末から鎌倉時代にかけて相模国波多野荘(現在の秦野市)を本領とした。 |
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