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『吾妻鏡』によると、大江広元(おおえのひろもと)は、大江惟光の子で中原広季の養子となり中原姓を名乗っていたが、1216年(建保4年)、陸奥守となった以降に大江姓に戻した。 広元と同じく公家出身の御家人中原親能は兄なのだという。 武神と呼ばれた源義家は、広元の曾祖父・大江匡房(まさふさ)から兵法を学んだといわれている。 広元は、1184年(元暦元年)、源頼朝に招かれて鎌倉に下向し、開設された公文所の別当となる(公文所は、1191年(建久2年)に政所に改められる。)。 1185年(文治元年)、源頼朝による守護・地頭の設置は広元の献策によるものとされる(文治の勅許)。 1191年(建久2年)、中原親能とともに後白河法皇の院御所「法住寺殿」の修造の指揮をとった(後白河法皇の院御所「法住寺殿」の再建)。 1199年(建久10年)に頼朝が亡くなった後も幕府の中で中心的な役割を担い、頼家が家督を継ぐと宿老13人による合議制の一人となる。 1221年(承久3年)に後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発した承久の乱では、北条政子とともに主戦論を唱えて勝利に導くなど、鎌倉幕府の基礎を築き上げた。 1225年(嘉禄元年)6月10日没(法名覚阿・78歳)。 |
大江稲荷は、大江広元邸址碑の近くにある大江広元を祀る社。 |
所領安堵の政所下文と頼朝の下文 |
赤染衛門は平安中期の女流歌人。 大江匡衡と結婚し中宮・藤原彰子に仕えた。 匡衡との間に生まれた子は挙周。 挙周の六代孫が広元。 |
1191年(建久2年)、後白河法皇の法住寺殿を修繕するため在京していた広元は、検非違使の職務として賀茂祭(葵祭)に供奉している。 賀茂祭(葵祭)は、下鴨神社・上賀茂神社の祭礼。 |
1185年(元暦2年)5月24日 |
源義経が兄頼朝に弁明するために書いた腰越状は広元あてのものだった。 |
1199年(正治元年)10月28日 |
梶原景時弾劾のために作成された御家人66名の連判状は広元に託された(梶原景時の変)。 |
1203年(建仁3年)9月2日 |
比企能員の暗殺では、北条時政が広元を訪れ、能員を暗殺する旨を明かしている(比企能員の変)。 |
1213年(建暦3年)5月2日 |
北条義時打倒の挙兵をした和田義盛は、義時邸、大倉御所、広元邸を襲撃させた(和田合戦)。 |
※ | 和田合戦で襲撃された広元邸は南御門前にあったらしい。 |
廣園寺は、和田合戦後、横山党の本拠地の武蔵国横山荘を手に入れた広元の館跡に建てられているのだという。 |
1219年(建保7年)1月27日 |
源実朝が暗殺された日、鶴岡八幡宮へ出かける実朝に「涙を止めることができない」と語った(源実朝の暗殺)。 |
1221年(承久3年)5月19日 |
後鳥羽上皇が起こした承久の乱では、北条政子とともに主戦論を唱えた。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
大江広元は愛甲郡毛利庄を拝領し、そこを相続した四男季光は、「毛利氏」を名乗った。 1247年(宝治元年)の宝治合戦で三浦氏に味方したことから、毛利氏はほとんど滅んでしまうが、季光の四男経光の家系が後世にのこり、戦国時代に中国地方を統一した毛利元就の祖となる。 江戸時代末には、毛利氏の長州藩は明治維新の成功に大きな働きをした。 西御門にある広元と季光の墓は、江戸時代に長州藩によって建てられたものという。 明王院裏山には、大江広元の墓と伝わる五層塔がある。 |
伝大江広元墓 |
大江広元の墓 (法華堂跡) |
六浦道(路)その1 守護・地頭の設置 北条泰時死後の政局と北条時頼〜宝治合戦〜 |
鎌倉市十二所 鎌倉駅から金沢八景・大刀洗行バス 「泉水橋」下車徒歩5分 |
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